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伝念入院記16 6回目入院 2020年8月 [伝念入院記]

2020年8月 危険な暑さの中 6回目の入院
 あまり詰まらなかった朝食がよく引っ掛かるようになり、詰まり気味になりながら仕事を7月いっぱいで終えた。最後の送別会のときも詰まって食べられなかった。それでも何とか通っていた。が、詰まってしまった。2年ぶりか。


8月18日(火)晴
8/17 16時かみさんと病棟で別れる。付き添いは病棟には入れない。コロナ対策である。しかし病院に入って病棟まで何ら支障もなく入れるのだ。案内された部屋は大部屋ではなく、7,700円の個室である。通常料金3万円かなにがしである。看護師が大部屋しか空いていないと言い訳していたが、個室しか用意されていなかった。空けば大部屋に移すといっていた。今のコロナをとりまく状況から判断すれば明らかである。緊急入院する患者を大部屋に入れてその患者がコロナに感染していれば、その部屋の患者全員がコロナに感染してしまう。それを防ぐためには緊急入院する患者を隔離しておく必要があろう。ここまで書いたところで看護師たちが入ってきた。11時前だ。検温、血圧測定、酸素濃度のルーティンである。今の疑問を彼らに投げかけた。するとひとりの看護師は言う。コロナ対策ではなかった。実際大部屋が空いてなかったのだと・・・。空けば移って貰うと宣う。去年のコロナ対応はこの程度だったのだろう。
 今日とりあえず内視鏡検査の空きができ次第、呼び出すという。それで詰まったものを内視鏡をみながら取り出すという。この領域はなぜか消化器内科らしい。そこの医師S氏が来て説明する。内容結果に署名を求められる。消化器外科では医師が同列にサインする箇所があったが消化器内科では医師の署名する箇所がない。医師がS氏であるか確認しようとしたので気付いた。
 11時半頃内視鏡室に呼び出される。最初標準のスコープで試みるがいつも通り入らない。細いスコープを挿入して詰まったところに到達するも詰まったものがなかなか取れない。何回も出し入れしてやっと通るようになった。原因物は白菜ということだった。通っても夕食はなかった。
 主治医が19時5分頃来て曰く、明日以降細くなっているところを精査して広げるかどうかも含めて考えると。  
アイスクリームとミルクコーヒーを仕入れる。病棟を出て今度入室は、インターホンで認証して貰わないとは入れない。


8月19日(水)晴
 よく眠ったのかどうか分からぬ眠り。横になっているのでうとうとしてしまう。いざ眠るとなっても深く落ちない。で、7時頃には目が覚めるがぼーっとしている。何も食べていないからか、ずっと寝ているからか、曖昧な感触である。
 8時5分頃主治医ともうひとりの医師が来て、広げるより柔らかいものを食べるようにするという。
 9時前に消化器内科(?)の昨日の医師と女医が現れる。昨日のことを話す。こちらは今までの経緯などを話す。術後こんなに長く詰まったのは初めてのことだと伝える。とりあえず謝意を伝える。
 初めての食事(夕食)。全がゆ100g、温泉玉子。
 19時35分、主治医、二人で現れる。19時55分、消化器内科医師二人来る。


8月20日(木)晴
 3時に目覚める。本を読む。
* 1977年「地鎮祭事件」(三重県津市)第一審合憲、第二審違憲、最高裁合憲(5人反対意見。)
* 1988年 「殉職自衛官合祀事件」(山口県)第一審、第二審原告勝訴、最高裁合憲(原告敗訴)
* 1997年「玉串判決」(愛媛県知事 玉串料公費支出)最高裁、違憲判決

 5時半頃看護師採血に現る。その後眠ろうとするも眠れず。
 8時10分、朝食。おもゆ100g、卵とじ、濃厚プディン、牛乳。
 9時過ぎレントゲン科より連絡。主治医ともう一人の医師が待っていた。レントゲン透視。結果は良好。広げなくても何とか現状でよいのではと云う。食事は段階をふんで次は三分粥になる。週明けに退院か?
 病室に戻ると部屋の移動。一番端の初めての部屋であった。並びは同じ。
 栄養士とか、また主治医が食事について念押しされる。3人ほどの医者が来る。3人ほど医師らしいのがやってくる。消化器内科か?
 12:10 昼食。おもゆ100g、豆腐、プリン、カゴメビフィディス菌。一気に食べると腹が張り、朝に続いて下痢。
 体拭き、それに着替え。
 13::00からテレビを観る。昨日は「戦場のピアニスト」、今日は「ガス灯」前者はポランスキー。久しぶりに映画を堪能する。
 18:10夕食。おもゆ100g、里芋汁、これは1度に食べても膨満感はない丁度収まりがよい。
 田んぼを貸しているT氏からメール。来年9月で終了とのこと、そんな気がしていた。
 21時半頃メールが入る。念のためチェックする。かみさんからだ。クルマのエンジンがかからないという。懸念していたことが起こった。この前タバコを仕入れるのにかみさんのクルマを借りた。そのときバッテリーが消耗していることに気がつき、6時間ほど充電しておいたのだが不十分だったのだ。そのうち満充電しようと思っていたのだった。明日仕事だというので、クルマ屋の友人に電話して、時間に間に合うようにして欲しいと依頼する。バッテリーを新しく交換してくれるだろう。


8月21日(金)晴
 7時半頃メールが入る、クルマが動くようになった。
 8時過ぎ朝食。三分粥100g、フルーツ(ナシ?)、濃流ゼリーコーヒー、牛乳、梅び塩、塩パック。全部平らげる。(牛乳以外)腹が張る、2回目のトイレ。
 新聞とミルクティーを仕入れる。昼食前にトイレ。
 12時過ぎに昼食。三分粥100g、煮物、煮浸し、小田巻蒸し、飲むヨーグルト、ミルクプリン、タイ味噌、塩パック。量多いかと思ったが意外と治まった。すぐ下痢とはならなかった。
 映画は渡哲也追悼「愛と死の記録」日活の売れない路線。蔵原惟繕監督の作品。吉永小百合が出ていた。
 18時過ぎ夕食。三分粥100g、湯豆腐、サツマイモレモン煮、酢醤油和え、のり佃煮、塩パック。全部食べる。食べている最中、主治医人で現れる。月曜日退院を希望する。20時前に内科(?)3人来る。


8月22日(土)晴
 あまり眠れず。土曜日であることを失念していた。映画もなく、観るべきテレビもない。新聞を買ってテレビ欄を確認。
 8時過ぎ朝食。五分粥100g、煮物(海老とキャベツ)フルーツ(桃)オレンジアガカリー(?)、鯛味噌、塩、牛乳。
 下痢にはならず。食事中、主治医を含めて3人来る。2週間後来院のこと。新聞を読みながらだらだら過ごす。「オブセッション」の意味が出てこない。やっと出てきた、『強迫観念』。時間が経てば思い出せない、それを繰り返す。他のことばでもそうなんだろうが特にオブセッションに関しては憶えておかねばと云う強迫観念で以て憶えたはずのものがすっかり記憶から抜け落ちてしまうのだ。
 12時過ぎ昼食。五分粥100g、甘鯛ちり蒸し、とじ煮(ブロッコリー)、ジョア、ココアワッフル、梅びしお、。塩
 少し詰まり気味となる。ネギとホウレンソウが引っ掛かる。腹が少し張る。20分後トイレ、少し出る。
 頭を洗って貰う。シャワーは面倒だ。結局一度も使っていない。体を拭いたのは1回のみ。シーツ交換は一度もなし。
 18時20分を過ぎて夕食。五分粥100g、オムレツ(+人参の甘煮)、サラダ、すまし汁、塩パック。全部平らげる。それほど張った感じはしなかった。今日は小便がよく出る。体重を量る、38.4kg、増えていない。


8月2日(日)晴
 昨晩は雷雨。大したことはなかったとかみさん。相変わらず眠れず。1時間毎に小水を足しに行く。
 8時過ぎ朝食。パン60g、煮浸し添え(サンド豆?)、フルーツ、ひじきお米せん、牛乳。
 何気なくパンを食べていると引っ掛かった。なかなか抜けなかった。牛乳は役に立たない。何とか通してほとんど食べる。
 10時頃、新聞、飲み物、アイスクリームを仕入れてくる。アイスクリームを食べていると主治医現れる。明日の退院と通院日の確認。アイスクリームを食べて1時間後、下痢。大量に放出。
 12時頃昼食。七分がゆ150g、煮物(人参と里芋)酢の物(春雨と海老)梅干し、塩パック、原宿ドッグ、マウボ豆腐。少し残す。
 18:20夕食。七分粥150g、海老そぼろ煮、照り焼き、胡麻和え、のりたま、飲むヨーグルト、塩パック。全部食べる。少し引っ掛かったものの大丈夫だった。腹が少し張り少し大便が出る。
 
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伝念入院記15 5回目入院その4 やっと退院 [伝念入院記]

11月21日(水)晴
 飛行機雲は目立たずつぶれてゆく。
 朝食 パン(ロール)60グラム、スクランブルエッグ、缶詰パイン、牛乳、低タンパクゆめせんべい(米 米国産)
 昼食 軟飯100グラム、鯖の煮魚、ダイコンの炒め煮、キャベツの酢の物、飲むヨーグルト、スイートポテト
 夕食 軟飯100グラム、鶏肉スープ煮、サラダ(玉葱ドレッシング)、しば漬け、グレープゼリー


 財政審議会の意見書   11/21毎日 社説より

   借金まみれの平成の教訓

「受益の拡大と負担の先送りを求めるゆがんだ圧力にあらがえなかった時代」
 今年度末の国債残高は883兆円と平成を通じて5倍以上に膨らむ。つけを回される将来世代を「悲劇の主人公」と表現し、「平成の過ちを繰り返してはならない」と求めたのは大げさではなかろう。
 国と地方の借金の総額は国内総生産(GDP)の2倍以上に上る。巨額の軍事費を大量の国債で賄い、破綻寸前だった第二次世界大戦末期に匹敵する水準である。
 

 かみさん来る。何で詰まったのか執拗に彼女が聞く。分からない、消化不良だったといっても納得しない。医者はどう言っているのか?主治医に詳しいことは聞いていない。ナッツ類やコーンを食べたことが原因であることは確かだ。それを言えば責められる恐れがあるので言わずにおいた。主治医は慎重で、重湯からスタートして順次上げていっている。金曜日の夜からはじめて今日昼で軟飯になった。退院は今日のレントゲン次第だという。毎日レントゲンを撮っている。何が問題なのだろう。膨らんだ小腸、大腸が治まるのを確かめているのだろう。
 K医師が16時過ぎに来てレントゲンの結果もよいので明日10時頃にはベッドを明けて欲しいと。後ほど来て薬のことを聞くので、こちらの要望を言っておく。


11月22日(木)曇後雨
 毎日お山をみて過ごす。今日でお別れか。

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伝念入院記14入院5回目その3 少し勉強する [伝念入院記]

 入院8日目。コンビニで食欲補給。

 自衛範囲「砂川」避ける (11/19毎日朝刊)
 判決起案者メモ「集団的」想定せず
「『自衛の為に必要な武力、自衛施設をもってよい』とまでは云わない」《砂川事件入江俊郎多数説(判決文)起案より》
 判決(自国の平和と安全を維持してその存在を全うするために必要な自衛のための措置をとりうる)と言及。「必要な措置をとりうるという中には、その為に必要な用意準備とその使用は当然と認めている。」としつつ「ただそこまで、積極的本件としてはいわなくてよかった」と、判断を意識的に避けたことを明記。「本判決の主旨は、自衛の手段は持ちうる。それまではいっていると解してよい。ただ、それが(憲法9条)二項の戦力の程度にあってよいのか、又はそれに至らない程度ならよいというのかについては全然触れていないとみるべきであろう」と指摘。自衛隊の合憲・違憲という判断を行っていないことを重ねて強調していた。個別意見(石坂秀一裁判官)「自衛権行使のため有効適切なる手段を、国家があらかじめ組織整備することも亦、法的に可能であるとせざるを得ない」とした点も、「本件としては不必要な判示である」と記している。
 安倍政権は砂川判決を解釈して
①自衛のためのに必要最小限度の実力組織を備えることは許される。
②自衛隊は「戦力」にあたらない。  
として国の自衛権とした。

 このメモでも砂川判決が自衛隊や自衛権のあり方について司法判断を示さない姿勢をとっている。  集団的自衛権の行使についてお墨付きを与えているという安倍政権の解釈は間違い。
革命歌作詞家に凭れかかられてすこしずつ液化してゆくピアノ
塚本邦雄
装甲車蘆原なかを迷い居り風の革命を鎮めんと来て
                            岡井 隆
  (11/19毎日新聞 単価月評より)

 本日の朝食  五分がゆ、温泉卵、缶詰ミカン、牛乳
    昼食  五分がゆ、三分の一切り身の魚、長芋のすりおろし、ジョア、原宿パウンド(デザート)
    夕食  五分がゆ、サンド豆のお浸し、玉子巻き(2片)、ビフィジス菌
 夕食はこれだけ違う、なぜだ?


11月20日(火)晴
 今日T氏に会う予定だったが、日曜日にキャンセルの電話を入れたが不在。義母がでたので伝言しておいた。
 16時から18時の間眠った。よく寝た。

 これからの護憲運動のあり方
① 憲法9条を指示しながら、安保条約も支持する(あるいは特に反対しない)。
  ただ乗り論である。
② 憲法支持で、安保条約反対。沖縄からもヤマト日本からも米軍基地の撤退を要求。
 護憲運動が米軍基地を日本(主に沖縄)に置く根拠を強める効果となる。
で、三つのやり方を考える。
・日本は軍事力で守られるべきだという憲法改正賛成・安保反対
 軍事力が必要であれば自力でまかなう。 

・日本は軍事力で守られるべきだが、自分でやりたくないし自分の子どもたちにもやらせたくない。安保賛成・憲法護持(憲法改正反対)。
 これは沖縄の米軍基地にお願いする結果となる。

・軍事力なしの外交
 護憲運動と同じぐらいの反米基地(反安保)運動に力を注がなければならない。
 これが理想でその気になればできるが、米国は黙っていないだろう。
 今のままであれば、中国を敵として自衛隊の実戦配備が現実味を帯びてくる。これは絶対に避けなければならないが・・・。

本日の朝食 角食パン、ママレード、カニもどきお浸し、ビスコ、バナナ牛乳
   昼食 七分がゆ、ビーフン和え、ジャガイモ・人参煮、卵焼き二切れ、ドーム菓子、ジョア 
夕食 七分がゆ、ふりかけ、塩、煮魚一切れ、玉子豆腐、冬瓜挽肉、茄子のお浸しビフィズス菌
 飲み薬として漢方薬だけになった。腸の働きをよくするものである。尼で同時に飲んでいたエクセラーゼ2錠がなくなった。消化剤を欲しいと薬剤師に頼むと、ベリチームを看護師が持ってきてくれた。これは6月消化器内科に入院したときに処方されたものだった。 話は変わって、家の鍵をリュックのどこかに放り込んでおいた記憶があるのだが、あるかどうか確かめていない。万一思い違いであれば鍵を22日の朝、いつものところにおいて貰わなければ後の行動ができない。家の中には入れなければ予定がこなせない。いくつかのポケットを探ったみた。鍵があった、これで安心だ。
 次の診察は12/14で良いかと主治医が聞いてきた。別に良いが、えらい短い。前回は2ヶ月以上空いていたのだが・・・。こちとら予定はないので主治医の都合に合わせることにする。



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「息子と暮らせば」(2010年作)再掲です [息子と暮らせば]

 この短編は11年前に掲載したものです。丁度今頃の季節に相応しい物語であろうと思って再掲する次第です。



                息子と暮らせば







                                   阿呆伝念








   さらば愛しきものよ

 2010年4月6日火曜日、本日は気温が上昇して暖か穏やかな日であった。気温が10度位にしか上がらない日々が続き、日中もストーブの世話になっている。今日はその心配はなく、外回りの仕事を漸くする気になった。
 昨日、金魚が住んでいる手水鉢を今年初めて覗く。寒い日々が続いていたのでまだ冬眠しているものだと思っていた。2匹いるはずだが、一匹は沈んでいて既に死んでいた。もう一匹は元気に生きていた。餌をやるも食べない。死んだ方を外に出してやり、放置する。 水の入れ替えは3カ月に一度か、金魚たちが切ない呼吸をしているのを見つければ水を換えるという方法で今日までやって来た。金魚をいつ手に入れたかは定かでないが、子ども達が幼少の頃に間違いないだろう。あるいは小学生のときか。何匹も死んでいったが最後にこの2匹が残った。誰も面倒をみないのでわたしが育てる羽目になる。水槽で自動空気挿入機も使っていたときもあったが、結局花崗岩をくりぬいた手水鉢に落ち着いた。内径50センチで深さが30センチぐらいであろうか。本日から主の居ない無用の長物となった。
 昨晩金魚を川に放流することに思い至る。一匹では何となく侘びしい。川なら他のサカナもいる。薄暗い手水鉢の中よりよかろうと思う。それが本日の行動となった。生きているのと死んだものと両方携えて100メートルほど先の川に赴く。水温もそれほど低くなく住むのにはよい環境と勝手に決めつける。死んだ方を先に投げ込み、次に生きている金魚を投げ込む。金魚は突然の変化が飲み込めず一瞬呆然としていたが、ゆっくり泳ぎ出す。蘆の茂みに入っていきまた戻りつつ川の感触を確かめている。しばらく眺めて別れを告げる。さらば。


  仕事がない、でも雑用は永遠にある

 去年の3月の28日に俺の仕事はなくなってしまった。息子は高校を卒業した。2階にひっそりいる。どうするのかも何も聞いていない。予備校の判定では全てE判定で、当然どこも行くところがなかったことだけは承知している。だから当然どうしたいのかを言わなければならない、その手続を無視してひっそり2階にいる。仕方なく昼食は2人分をつくり無言で喰う毎日が始まった。しかし「いただきます、ごちそうさま」をわたしが唱えると、息子も和するようになった。何故家にいるかを聞くのも面倒なのでいつか言うだろうと放置してきた。それがいまだに続いている。
 俺はなるべく外に出て今までできなかった雑用に精を出した。特に圧巻だったのは、死んだ母の残した梅酒の瓶群だ。瓶といっても昔、味付け海苔が入っていた徳用瓶だ。それが狭い倉庫に50個近く、20年以上の代物である。それも実が入っているから明らかにカビになっているものや濁っているものや様々だ。外から分かるものは柿や栗の根の近くに穴を掘って放り込む。液体状のものは一応味見してグレードを決めていく。よくそんな気が起こると思いの方もおられると思いますが、アルコールが入っているのですぞ、アルコールです。メチールなら恐いが、エチールです。わたしには目がないアルコールなのです。昔、「追跡者」という映画がありまして、その追跡者が、逃亡者が山小屋に残したと思われる缶詰に指を突っ込んで口に含むのです。何をしているかお分かりですか?その味が新鮮かどうかで、逃亡者がいつここにいたのかを判断するのです。
 そんな気分で梅酒の鑑定を始めました。渋めのものを穴に流し込み、濁った味のよくないものも捨てていきます。すると味のよいものは透明度の高いものに落ち着いてきたのです。透明度のよいものを全て味見してヴィンテージの品定めをして新しい瓶に入れ直して書き込む。かなりの数量、1升瓶にして10本近くの飲める梅酒となった。その内ヴィンテージは3本ぐらいだった。アルコールの入っていないシロップと記してあったものは何ともいえないいい味だが梅酒ではない。甘いのは好きではないが、いいものもある。しかし基本的には甘いものは飲まないので、お裾分けをしたりしたがまだある。その後が大変なのだ、瓶の洗浄だ。すぐにやっても綺麗にならないので一ヶ月ばかり水を張って置いておく。しかし、蚊が湧くまでには処理をしなくてはならない。それをしっかりやり終えた後、倉庫の棚に並べておくことにした。全然要らないのだが、捨てようがないのだ。
 鮒ずしの樽やもう一つ樽があるが、20年近く放置してある。それらは少し臭うものとして存在感がある景色の一部として封印している。有り体に言えば処理するのが恐いのである、何が飛び出すか分からないからだ、しゃれこうべが出てきても悪霊が飛び出しても何の不思議もない。であるから魑魅魍魎を封印しているのである。
人間という厄介なもの、何が一番厄介かといえばゴミ塵芥排泄物だ。家庭ゴミや排泄物は回収してくれたり下水道に流すことができる。もちろん金はかかる、待ったのかからない課金である。ところが大型で、一般のゴミに出せないものが家の中に堆積していく。只のときなら何とか出していたが、それらが有料化されると家の中がゴミ捨て場と化してしまう。このような世の中になるとゴミに金をかける余裕はなくなっていく。捨てることもできず、家二軒あれば一軒は大型ゴミで満杯になってしまう。どれだけ無駄なものを買っていたかだ。過去の亡霊と一緒に暮らしているようなものだ。処分したいのは山々だがそんなものに金を使う余裕はない。それには手をつけない。
 手がつけられるのは敷地内にあるあまり大きくない木々。庭を構成したマツや檜やその他諸々の木は、10年手を入れなかったので、手のつけられない大木と化した。そしてマツは枯れてしまった。倒れれば屋根を壊してしまうだろう。不安材料ばかりで安心材料は何ひとつない。世界の経済状況をまさに先取りしているのが我が家の姿である。
 下を見れば蔓ニチニチソウが一草独裁、上を見れば藤、三つ葉アケビ、テッセンの三つ巴の戦い。道路に面した藤は切っても切っても雨後にのびる。道路に散らばった桐の花を掃き集めたり、側溝を掃除したり、やることはいっぱいある。不要な檜の古木を切ったり、楠の枝を切ったり暑くなるまでは殆ど外回りの作業をする。暑くなってくると雑草を取り除いたり、蔓ニチニチソウ支配の一部を奪還したりする。こういう作業はやればやるだけ結果として表れるので心地よい達成感を味わうことができる。フラストレーションが溜まらない。俺には単純作業が向いているのかも知れない。しかし暑すぎると何もする気にならない。そんなときは、本でも読むかということになるが、二日酔いか、呆けた頭だから読んでも何を読んだか覚えていない。そうこうするうちに夏も終わっていきそうな気配になる。 


  オヤジとは?

 相変わらず昼飯は俺がつくり無言でひたすら食う。「頂きます、ごちそうさま」の繰り返しだ。いつの間にか小生が作り、息子が後かたづけをする構図となる。
 ところが外からはうまくいっているようにみえる父子関係が根底から崩れた時期がある。一向に息子が何も言わずに家に居座っている。息子が何か言うだろうと思って期待していたがいわない。5月になっていたろうか、4月の終わり頃だろうか、夕食のとき息子におまえ何で家にいるんだと聞く。すると息子は憎々しげに「おまえと一緒や」と抜かしたのである。わたしは全くそんな言葉が出てくるとは夢にも思っていなかったので、二の句も継げず言葉を失ってしまった。同席していた娘もかみさんも何も言わなかった。それもショックだった。今までそんな兆候もなくここまで来たので予想だにしないことだった。
 ねじめ正一が父親のことを話しているのを聞いたことがある。彼が小学生のときだろうか、何でうちは貧乏なのかと父親に聞いたという。するといきなり体をつかまれ腰払いのような技で庭先に飛ばされたという。彼はいう、オヤジはこういうことを言われたらこうしてやるんだということを決めていたのだと感じたと・・・。それともう一つは彼が26歳ぐらいの時、同人の何人かをオヤジが通っている新宿ゴールデン街の飲み屋に連れて行った。そこで、おいと彼を呼びかけるオヤジがいていきなり手を握り1万円札を握らせて姿を消したという。これもオヤジが一度はやりたい、息子に対する「決めごと」だったのだろうと、ねじめ正一は語る。わたしにはそんなシナリオなどない。白紙のシナリオが宙を舞うだけとなる、あまりにも悲しい。俺は2日ほど昼飯を作らなかった。ひっそりしていた二階が騒々しい。やる気を無くした、くそったれといっているようなものである。通過儀礼であるオヤジへの反抗が今頃あらわれるとは、あまりにも遅いが、通過儀礼はあった方がよい。俺など中学生にはあったが、暴言は吐かなかった。俺はオヤジにどつかれてどつかれて育った。悪いことをしたら仕方のないことだが、理不尽に暴力を振るわれることが多かった。中学の終わりか、高校の始めに同じことが始まったとき「いいかげんせいよ」とオヤジの体を捕まえて怒鳴り返すとそれ以降暴力沙汰は全くなくなった。暴力を受けて育つと大人になって我が子を虐待する傾向があるとまことしやかに囁かれるが、わたしは一度も家族を殴ったことはない。しかし、いつも頭ごなしに言う癖が抜けきらず、非難ごうごうだ、面目ない。
 2日ほど経って昼飯をつくり、二階に食うかと呼びかけると素直に降りてきた。それから、また「頂きます、ごちそうさま」の昼飯が3月まで続くことになる。


   山へ

 9月に入ればそわそわしてくるものなのだ。秋雨も気になるところ、もちろん梅雨の時期にどれだけ降ったかもチェックしている。しかし梅雨の雨は影響が無くなり、帰って悪い結果になっていると思うこともある。要するに降りすぎで、何もかも流してしまう雨量となる。地面が削られ菌糸の育つ場所が無くなってしまう。そうなると勢い秋の雨に期待せざるをえない、特に9月始めの雨だ。8月の終わりにはいつものキノコがちゃんと出ているか確認に歩く。全く歩いていないものだから、これが結構億劫になる。まだ夏だし暑い。意を決しなければなかなか一歩が出ない。
 夏の終わりに結構なイグチ類がでている。それも刺身で食えるものが・・・。いつも出かける決意をするのが遅く時機を逸している。で今年こそという思いでチェックに入る。なるべく歩く距離が少ない姑息な方法を取る。クルマでできるだけ近い場所まで行って山に入る。それもイグチ類がよく出ているところをピンポイントにして。クルマを適当なところに止めて、着替えて靴の紐を締める。これでやっと決心がつく。河原から入る。いつもの景色かどうか確認する。サギソウも咲いているはずだ。所々に可憐なサギソウの姿を見つける。前は群生していたが、ハイキングや業者が採り尽くして一時消えかけていた。元には戻らない、でもあるだけでほっとする。池にはヒツジグサが花を咲かせているが、ジュンサイは殆ど消えていた。随分前は食べる分だけ取ってスープにして食べていた。
尾根に向かって登山道を歩く。干からびたカラスダケのようなものが少しあっただけでイグチどころかキノコそのものがない。どこに生えていても不思議でもないのに全く生えていない。尋常ではない。せめてムキタケぐらいはと思っていたが、全く見あたらなかった。今年の秋のキノコはこのままでは大不作だ。本格的に山に入る前に週一度は、山を読んで今年の作柄を確定していく。いつ本格的にはいるか。そして記憶が定かでない山の境界の確認だ。もめ事が起きたとき、滅多に無いのだが、確信が持てないと仲間にも迷惑をかけることになる。全てわたしが仲間に教えているからである。わたしの責任となる。だから記憶が薄れたところは必ずアルコールまみれの壊れかけた脳に念押しをする。そして9月の気温、雨量、今までのチェックで今年のキノコの最盛期を予測して行動する。総合して勘案すると今年のマツタケのピークは遅い、しかも大凶作。10月の20日ぐらいになると予想した。


2009年キノコ日誌

9月19日(土)晴
 10時頃おきる。3時過ぎからあまり寝ていない。二日酔いはたいしたことはないが、調子が悪い。
 近くを散歩する。キノコが生えていそうなところを歩くが全くない。唯一 ホコリタケ。

9月20日(日)晴
 A氏と山へ。縄を張りにだ。マツタケ山を落とした後、境界の縄を張るのが例年の行事。
 山は無惨な姿である。乾燥しきっていてキノコは皆無である。こんな山は初めてだ。湿ったところで2本小さなキノコ、キツネタケか、それだけだった。盆頃からまともに降っていない、Ⅰ週間前に降ったが何の影響もなかった。今年の山はどんな景色を見せてくれるだろうか。

9月25日(金)晴
 30度以上になった。昼から山を覗く。1時間もかからないと水も持たないで行く。相変わらず何もない。あの雨では何の影響もない。
 そうだ、あの堰堤を見に行くかという気になった。すぐそこにあると錯覚していた。いつも歩いているところからそれほど離れた場所ではないと踏んでいたのだ。ずんずん入って行くもなかなか正体をあらわさない。湿ったところも乾いたところもキノコの姿は全くない。かなり歩いたところに堰堤があった。そこから引き返すつもりであったが、そこにある地図で確かめると山道まで500メートルもない。なら行ってみない手はない。そこから少し行くと急な勾配になる、それがずっと続く。もういい加減にしろといいたくなるほど歩く。道も定かではない。
 尾根を歩いてやっと山道に出る。どの山から降りるか、悩んでもとの山から下りるルートにする。距離感覚がまるで違う。やっぱり衰えているのか。かなり歩いて沢沿いに降りようとしてこのあたりのはずと思っても水の音がしない。どんどん下がる。ここと思いつつも自信がないのでどんどん下る。どうも行きすぎたと思ったところでもとの山方面に入る。さっぱり分からないところだった。また少し降りるとああここかという場所に出た。左か右か、どちらをとれば良いか計算する。右をとる。山ではこのように歩かされることがある。これが山であり、惑わせる山女がいる。

9月29日(火)曇
 雨の予報が続いたが一向に降らない。雨に備えて落ち葉を掃く。
 栗が順調に落ちてくる。この3日で60個近く。柿はひどい、小さくて病気になっている。不作だろう。もらった枝豆を配る。

10月1日(木)晴
 11時頃までだらだら寝て山に出かける。二日酔いだがそれほどでもない。ところが山を歩くと耐えきれなくなってくる。坂になると怖ろしく辛い。休み休み行く。よく入る山からはいるのを躊躇する。まだ濡れている。勇気を振り絞り入ることにする。少し歩むが辛い、こんなつらさは初めてだ。這々の体で急斜面を登り終える。途中吐きそうになり吐くが何も出ない。
 山は何もなく、キノコのキもない。それでもマツタケの出ていたところに削り取ったあとがある。シカかイノシシの仕業であろう。全くキノコがないので諦めて降りることにする。思い直して最後の階段をチェックする。一番下に小指ほどのマツタケ、隣はマツタケが抜けたあと、小さいながら出ていた。他のキノコは全くない。
 
10月3日(土)晴
 山へ。酒は少し残っているが、この前よりはましだ。また同じ山から登る。キノコは同じく全くない。残しておいた最後の階段をチェック。カタツムリに少し食われたのが1本。あとは全く音沙汰なし。他のルートのかかりの岩場にも行くが、気配はない、諦めて降りることにする。谷の岩場にさしかかりすっと渡ろうとしたが、すってんころり、ケータイが水の中につかって飛び上がってくる。前に転んだので良かった。手をつくことができた。初めてのことだ、岩場で滑ったのは。濡れた岩場気をつけるべし。

10月4日(日)晴
 10時頃B君と山へ。コースを踏破するが、キノコは2本だけ。これだけどこにもキノコが見つからないのは変である。雨が降ってから1週間も経っているし、途中でも降っている山も湿っている。なぜ、なぜ、ということだ。3時半頃帰る。

10月5日(月)晴
 いつもの山から上がる。3時頃飲んだので二日酔いかと思ったが、たいしたこと無かった。日本酒はやはりだめだ。だから焼酎とウイスキーにした。しかしこのような生活はやめなければならない。血液検査をするべきだが、怖い結果が待っているようなので先送りしたい。
 上の方でアミタケ3枚。名の分からぬいつもフェアーリングを描くキノコ少々。1本も出ていなかった。

10月9日(金)晴
 9時過ぎに山に行く。昨日酒を3週間ぶりに抜いたのでいつも通り眠れなかった。二日酔いなら10時以降になる。
 昨日の台風で道は荒れて木々が道路を塞いでいたのだろう。取り除いてあった。濁流の痕、砂や泥が道路にあふれているところがあった。沢の水が増えて渡るのが大変だった。
 松笠に生える小さなキノコが大量に生えているだけ、あと1種類2本。あとは相変わらず。マツタケの音沙汰は遠い。土を押さえれば反応があるはずが、全くない。
 最後の栗を拾う、台風のあとだから。

10月15日(木)晴
 2度寝して9時過ぎに起きる。10時前に山へ。色々考えたが、いつもの山からはいる。
 いつものルートから尾根に上がり、アブラシメジの群生地を確認に行く。全く何も生えていない、どんなキノコもない。マツカサに生えていたキノコは跡形ももなく消滅。
 マツタケのでるところは指で押さえるも、手応えなし。
 人が入っている。キツネノチャブクロがひっくり返っている。
 鳥の羽がまき散らされている。行きにはなかった、何の仕業か不可思議である。
 
10月17日(土)晴のち雨のち晴のち雨
 9時半にA氏と山へ。
 違うルートから入る。キノコは相変わらず生えていない。ムキタケが一つ。小さい。これは夏の終わりに大量にでる。階段状のところににいつもの小さなのが一つ。キノコはない。しばらく行くと食べられたのが1本。
 谷の途中に1本、A氏見つける。
 谷から上がった蜂の巣がある(今年から)ところに食べたあと1。
 次の木場は何もなし。
ニンギョウダケに似たキノコが2本、ツルダケが1。
 途中雨が降る。
 雑タケが相変わらず生えていない、菌が8月までの雨で流れてしまった。落ち葉が流されている。あと十日ででないと怖いことになる。

10月19日(月)晴
 いつもの山へ。途中から上がれないかといつもの手前から登ることにする。道らしきものに沿っていくも無くなる。背の高くなったウラジロをかき分けての直登。這々の体で何とか尾根にでる。30分もかけていつもの途中にでる。気力が失せた。
 アブラシメジも全く影形もない。奥の階段もさっぱり。イグチ類が固まって5本ぐらい生える。
 つぎのところのコケの階段に小さなのが1本。後はなく、いつもでるところにイノシシが掘っている。2センチぐらいのが土の中に隠れている。最後の階段に小さな小さな1本。残しておく。1週間はかかるだろう、地面から顔を出すのに。二つの木場を無理してみる。相変わらず全くでていない。この前でていた1本のところも次がない。もう他を回る気持ちはなくなった。山を下りる。
 雨の降る予定もない、不作というより山に異常が発生している。

10月22日(木)晴
 A氏と山へ。違う道から。
相変わらずキノコの生えてない山模様だ。もちろんマツタケもない。途中でA氏、立派なのが1本。
 谷の手前、小さな1本。
 この前のところでA氏2本。
 最後のところで2本。

10月23日(金)晴
 いつもの山へ。途中から登るも前と同じところに出る。仕方なくいつもの入り口から登る。何もない。アブラシメジが少し、2,3本。
 どこも何もない。奥でいつもとれるところが全く今年は出ていない。よく見ると松が枯れていた。また木場が消えた。
 いつもの山の下がり、3本。
 最後の階段1。その上1。
 尾根を歩く。キノコはまるでなし。歩いているといきなりましな道に出る。シカもいた。歩いてみると、どうも違う道に入ったようだ。歩けば歩くほどその道以外なかった。
後は全くなし。  

10月25日(日)曇
 なにもない、アミタケ少々。
 一昨日あったヤマイグチがきれいになくなっていた。ということは誰かが食べた。シカか、イノシシか?他のキノコも食べなければならなくなったのか、初めて見る光景だ、ドングリは豊作なのだが・・・。

10月27日(火)晴時雨
 A氏と山へ。谷に出るまで全くない。いつも出るところで小さな一つ。その下を探ると3本。その高さを歩いていくと梨に似たのが一つ落ちている。梨にしては小さいがそれを試食する。梨であった。こんなところに梨はない。闖入者が落としたのかと訝ったが、梨の木があった。まだもう一つ木になっている。そこにマツバハリタケ、それにマツタケがあるある。斜面の下にあった。
 最後の岩場に1本、初めて出る。

10月28日(水)晴
 当然いつも行く山にも生えていると信じていく。上がった右の階段、その上の尾根、最後の階段も一本もなかった。何も出ていない。
 山道の最初、見ていないところを見ると道と岩場の間の階段状のところに1本、よく見るとクロカワ2枚。岩場から南の階段を見ると小さいのが1本。
 途中から沢に向かって横切っていこうとしたが、マツは全くなくなり怖ろしい傾斜になっていた。何とか降りるとダムの下に出た。道は流され途中で切れていた。その上をまた登る。五葉松の苗がいっぱい。キノコは全くない。尾根伝いに上がると予想通りの場所に出る。
 疲れたので帰ることにする。

10月29日(木)晴
 たばこを仕入れて山へ。
 今年初めての谷ルート、ダムに思ったより早く到達。出そうなマツの林に目星をつけて登る。良い林があったが全く出ていない。続きを上に行くともう古い木々しか生えていない。植林されているところはなく、いつも上がるところに出る。いつもは見ないが少しチェックを入れるも全くだめ。
 谷コースに戻り逆走する。梨の木の下に2本、少し離れたところに1本。最後の島を見ていくことにする。全くなかった。続けて生えることがない、梨の木の下だけだ。これ以上いたって仕方ないのでおりることにする。

10月31日(土)晴
 予定していなかったが山へ行く。上がった尾根に1本、振り返ると2本。遠い下りまで見に行く。開いた小さなカサ、珍しい。シカとイノシシとの競争なので開き(ヒラキ)は滅多にお目にかかれない、殆どがコロである。
 アブラシメジ少々。アミタケ少々。シメジのでるところから階段を上がっていくとくろこ(クロカワ)が見える、まわりにもきれいなのが2枚。後は全くない。

11月2日(月)晴時々雨強風
 寒い。A氏、C氏と山へ。
 谷から山道へ。シロシメジ、アミタケ少々。マツタケは全くない。最後の岩場の手前に1本。C氏に進呈。降り口にキシメジ。いよいよ終わりの様相を呈してきた。
 
11月4日(水)晴
9時半頃山へ。何もない、アブラシメジが少々、後はない。最後の山を下りる階段でいつも見ない隅に開いたのが1枚。階段状のところではキシメジが食べられている。とうとういろいろなキノコに手を出したのだ、シカだろう、この喰い方は。
 

11月9日(月)霧後晴
 霧がすごい、曇なので霧が晴れるのは遅くなるだろう。霧に濡れての山はイヤだなーと思って9時半頃でかける。
 山はあまり濡れていない。いつものルートから登る。何もない。アブラシメジは少し。 シメジが出ていた。スープとシメジご飯にはなる量だ。もう一カ所は全く音沙汰がない。奥に行くも何のキノコもない。
 シロシメジ1枚。最後のところ、今年初めて岩場を覗く。降りる岩場の下で開き1枚。 キシメジもほとんどでない。

11月10日(火)曇のち雨
 3時までもちそうなので山へ。ダムから上る。いい生えはあるが全くない。がんばって岩場を上がったり下がったり、でも何もない。一番遠い尾根からいつもの道に戻った。

11月12日(木)晴
 いつもの山へ。何もない。

11月15日(日)晴
 いつもの山へ。斜面のツツジの茂みに1本。アミタケ、キシメジが生えてきた。
夕方、友来る。

11月18日(水)曇のち晴
 B君と山へ。やはりキノコはなかった。最後の砂地の斜面にクロカワ5枚ほど。
 ほかはなかった。

11月26日(木)晴
 山へ。先週までキノコは出ていた。まだありやなしか、を確認に。キシメジ1本、スミゾメシメジ(訂正シモフリシメジ)1本。あとは何もない。
これにてキノコ狩り終了


  ぼちぼち受験態勢

 わたしが山に弄ばれている間、息子は二階に潜んでいる。たまに高校時代の友人が来ては話し込んでいた。毎日30分から1時間外に出ている、多分運動だろう。どこかへ出かけるということは殆どなかった。10月になってからだろうか、9月だったろうか、予備校の模試を受けた。その結果を見せるように言っておいたのだが、一向にその気配がない。とんでもない結果だったことは推して知るべしということだ。あえて見せろとは二度といわなかった。勿論このときでも山に一日いない限り、「頂きます、ごちそうさま」の生活は続いていた。

 わたしが1階で一日中パソコンと睨めっこして、息子はことりとも音を立てずに二階に潜んでいる。一度も息子の部屋を覗いたこともないし覗こうという発想もなかった。時間だけが確実にゆらぎもなく過ぎていく。その内年が明け、受験シーズンが近づいてきた頃「いただきます、ごちそうさま」に変化が起こった。息子が蚊のような声で「試験受けさせて下さい」といったのだ。わたしはそうかと応えただけで、便意を優先させた。どこを受けるのか、聞く気もなかった。まさか去年と同じアホはやらんだろう、いくらバカ息子
といっても・・・。
かみさんが、息子がセンター入試を受けるという。何のためか、意味が分からない。本来ならセンター入試の点数と本試験との合算で合否の判定がでるか、センター入試の点数で本試験受験資格の足切りに利用されていた。何で息子がセンター入試、公立大など受かるはずもないし、何でという疑問だけが残った。後になってその意味が分かるようになった。
 そうこうする内に受験票が届くようになった。わたしは金を出していない、受かるところなら金を出す、去年のような全くの無駄をしたくない。去年息子は俺にどうのたまうたか。俺はこんなとこ受けても無駄だ、受かるところにしろと言った。息子は自信満々で予備校の評価はEやけど、後2カ月勉強したら受かるところまでになる。で仕方なく受験させてしまった。親ばかです。アホ親の真骨頂を発揮しております。今回はかみさんがアホ親を演じております。
 速達なので手渡しとなります。ひとつめが届いた。当然一階にいる小生が受け取ることと相成ります。R(経営学部経済学科)、えーっ、無駄。去年受けてねーっ。だいがく変えたら受かるとでもおもっとんのかね、うちのかわいい息子は・・・。
ふたつめは、目を疑ったねー。D(法学部 法学科)ほうーとしか言いようがない。これも去年受けていない。やっぱり大学変えたら受かるとうちの坊やは信じているみたいだ。信ずれば救われるを信ずれば受かると解釈、自虐の真骨頂か。
 三つ目はM(法学部 法学科)、これは去年も受けた。予備校の評価はE.いーです、よいですと解釈しとるのかね。リヴェンジのつもりなのか、来年のアレンジなのか。悲しくなってきます、窓の外は雨、雪が降っています。
 4つ目はK、しっかーも商学部、経済学部、とどめは法学部政治学科。言葉を失うということが存在することに今やっと気付きました。確か去年きみはWだったんだよね、去年より綺麗になったーっ。ずっと綺麗になったーっ。受けるのは只やナインやデー。一発25,000円也。計75,000円。
 あとは待てど暮らせど受験票がやってこない。何かの間違いではなかろうかと思ってかみさんにそのことを話すとそれだけだという。絶句。
 何で何で、そんな無駄なことをした、ドブに金を捨てるようなものだ。ドブなら拾って洗えば何とかなる。この金はすーと消えたのだ。俺にくれればよかったのに・・・。何でそんなことをしたのだとかみさんに詰問すると、言うことを聞かなかった。どこかでよく聞く決め台詞ですね。親としての判断を説得させるということを放棄する場合、いいですね、言うことを聞かなかった。泣くまで待とう不如帰。2浪させる気はない、だめだったら働けと厳命、間接的に言う。俺の口からは「この中から一つでも受かったら、逆立ちで地球一周してやる」という言葉が飛び出そうとした。わたしは出かかった言葉を何とか口の中に収めた。それは身悶え、怒り狂ったが、わたしの意志が最後に勝利した。万が一があるから言わなかったのかと問われれば、それはないと応える。万が一も、籤なら一千万が一、どう転んでもあり得ないのだから・・・。でもそれを言っちゃー終しめーよ。冷静に、バカをやってもわが息子なのだ。そこまで貶めることもないのだという親の理性がはたらいた、俺にはせいりがないので、りせいがはたらいた。世の中すざまじい凄惨な事件を起こしている若者が多い中、わが息子真っ直ぐ育っていると思う。あまり真っ直ぐ育ちすぎ、中学でいじめ、高校ではハミゴにされました。一見好青年ですが、先ほど言いましたようにどこから出てくるのか、自信過剰。いわゆる調子こくっていう性格なのですかね。わたしと話しているときはそんなことはないのですが、そういう場面を垣間見てしまいました。わたしの嫌なタイプです。高2のとき、突然留学させてくれという。その時はまだ少量の金がありましたが、留学させることなどできるわけないじゃありませんか。100万円だけだったら出す、それ以上はないといいました。それからはその話はしなくなりました。修学旅行は行かないと言い張りました。ハミゴの元はこれだった。友達と息子が思っていた仲間から修学旅行での部屋割り、団体行動からいきなり外された、それが高2の春。従って秋の修学旅行は絶対に行きたくなかった。ハミゴどうし、一匹狼と勝手に部屋割りをされて誰も友達がいない、だからいっても詰まらない。最後の最後まで抵抗した。小生は何とか説得して行かせた。沖縄は行ったことがない、家族旅行はもうない、なら知らないところは、特に沖縄はしっかりみておいて欲しい。損はない。

 で話は元に戻って、かみさんとの話の結論は、今回は前期なので後期にどこでもいいから受かるところを受けさせたいという。本人も2浪はする気がないといっている、なら何であんな大学を選択したのだ、といっても仕方ないので後期にかけることにした。彼女は息子に行き先さえ決まればどこでもよいという。御意。


  一応受験する

 交通費が無駄になるのは分かっていても、息子は全てを受けた。はっきり知らなかったが、最初にRをセンター試験で受けたのだった。しかし、センター入試の受験票を受け取っていないのに、という疑問だけは残った。それがこれだった。後になって分かったことだが、私立でもセンター試験で合否の判定がでるということ、だからA日程とかB日程がある。前者がセンター試験、受験料は18,000円。後者なら25,000円。受験料は安いが難度は高い。ヒヤリングもできないのによく受ける気になった。根本が間違っている。
 東京は新幹線で行った。夜行で行けよ、ばか者よ。さすが2回目にいくときは夜行のバスで行った。当然帰りはバスだ。
 そういえば去年の入試でこんなことがあったのを思い出す。息子は東京からの帰りを鈍行で乗り継いで帰ってきた。そのまま乗っていけば30,40分で最寄りの駅に着く。その30,40分手前の駅で降りたので迎えに来て欲しいという。金を全部使ってしまい、そこまでの電車賃しかなかったという。それも最終、ここまで阿呆とは、がっくりきたね。そのもっと前に駅員に訳を話してどうしたらよいか聞けば解決する単純なことだ。その発想がないのか、単純にバカなのか、ぞっとしたね。自信過剰が全てに災いしているのだ。知らないことは教えを請う、この当たり前ができていない。人生最後まで勉強と小生は思っている。勝手な自己判断。経験を積んでの上でならしくじりもある。何もないのだから、しくじりもしない。しくじれば反省して次に活かせる。こんな状況に親を巻き込んで当たり前と思っているのだろう。
 何時だ、もう0時をまわっている。俺は十分に酒を飲んでそろそろ寝ようかという態勢。クルマの運転はできない。たまたまかみさんが飲んでいないので、彼女に運転してもらって俺がナビゲーターやるしかない。2人とも飲んでいたらどうするつもりだった?寒い2月の夜を・・・。高速を使っても1時間近くかかる。
息子を拾って帰宅するともう3時近くになっていた。


  後期の試験どこを受けさせよう

 この根本的な課題を解決するのに資料が全くない。去年なら予備校に相談することもできた。宅浪でしかも予備校の模試も一回しか受けていない。それもかみさんの情報によると公立を受けるつもりで模試に望んだのだという。だから見せられないわけだ。とんでもない成績だったのだろう、推して知るべし。10月の半ばから私立の勉強に切り替えたという。それじゃ去年より分がずっと悪い。どうしたものか、金のかからない易しい大学を探すしかないという結論に達したが、選ぶ方法の見当がつかない。唯一去年の予備校の評価でAがあった。それはTであった。わざわざ東京に行かすこともない、いつ破綻するかもしれない経済状況で・・・。関西で同等の大学はどこになるのだろうと考えても結論は出ない。例え受けろと言っても息子は受け入れるのかどうか、それも分からない。結果が明らかになれば愚息もそうせざるをえないだろう。悶々とした日々が続く。


  ほんまかいな

 夢か現か、狐に化かされたような、すぐには理解できないことが出来 チャイムが鳴るので何気なくでると、郵便局員が速達ですという。へーと思いながら中身をみるとR合格通知。何か異次元のものをみた感じで、その意味をとっさに理解できなかった。合格?ほんまかいな、ためつすがめつ、やはり合格通知であった。この驚きは地球7周半の光の衝撃同様、クオークに質量が存在するという根本的なものが覆ってしまったのだ。わたくしは茫然自失の状態で、めくるめく太陽だけが眩しかった。時間の経過と共にその現実をやっと受け入れることができ、まさに欣喜雀躍、心の底から湧き出る喜びを感じた。これ以上のことはない、でかしたわが息子、御の字だ。家からも通える。心からよかったと、今までそのような感覚は一切持ち得なかったわたしであるが、ここを先途と喜び震えた。やっと行くところができた。本当に嬉しかった。


   まだ続きが・・・

 本来ならそれで終わるべき物語なのだが、悲しいことにまだ続きがあるのだ。
 Dは当然不合格。これで終わるはずだった。ところがM合格。そして悲惨なのはKの法学部、補欠A。という結果になった。当然俄然、Kに行きたい、息子は。調べてみると去年の補欠合格ゼロ。一昨年は補欠合格10名。補欠がとられると当然合格となる。それからの20日間は入試合格結果の数字を追う毎日であったが、なかなか更新されないのだ。更新されるのは他学部だけで法学部の更新は全くない。Rの締め切りはとっくにあったので捨てざるをえなかった。経済関係なので数学のできないのが分かっている息子故、その結論も仕方ないかなと納得せざるをえなかった。そこで仕方なく、Mの手続をしてKの結果を待つことにする。他学部は補欠全員合格とか、それ以上の合格者を出しているが、法学部は数字が出ない。辛い毎日であった。
 Mの締め切りが2日後に迫った。Kの入試情報を閲覧すると、法学部の補欠入学者の欄に0という数字が入った。息子は夢を見たのであった。あまりにも現実的な逆夢となった。わたしはそれでよかったと思っている。今までの息子のことを勘案するとこういう結果の方が、何となくわたしにとってしっくりする。
 しかしわからないのは、何でこんなことになったのかということである。Dは2点足らなかったと・・・。センター試験の結果が届いた。受けた教科は9割以上か9割に近い数字であった。英語のヒアリングの5割を除いて・・・。そんなすごい勉強をやっていたとは思えない、「いただきます、ごちそうさま」を繰り返していただけなのだ。世の中に理解不能のことがあるとすればどう考えてもこの息子のことだろう。息子と暮らしても何も分からなかった。
(了) 

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伝念入院記13 5回目入院その2 [平成阿房伝]

11月17日(土)晴
 夜明けの西空は雲の階層が出来ていたが明けるに従って消えていった。一直線の飛行機雲が出来ていたが昨日より鋭さはなく、線は膨らんでいった。
 
 少し復習する。
 憲法は政府に対する命令である。(ダグラス・ラミス)
 今の政治は、ファシズムである。議会で多数を得ることはこういうことが出来るということ。憲法を無視したり、今まで連綿と紡いできた了解事項をこともなげに覆して平然としている政権を指をくわえて見つめるしかないのである。国会で嘘を平気につき、責任をとらないことが当たり前になっている。あるものも隠し、答弁の都合に合わせて改竄もする。日本はすでに喜んで戦争するファシズムの国となってしまった。アメリカの奴隷という立ち位置は変わらないが・・・。

 「社会契約論」(トマス・ホッブス)の成立について
 『リバイアサン』より
 人間の行為の動機は「傲慢」と「恐怖」からである。
 国家の正当性は、政府がなければ「自然な状態になる」。
 「自然な状態になる」は、国家が消えてしまった状態で、個人と個人の闘争が起こることになる。「第一自然権」(あらゆるものを自分のものにする権利)は、万人と万人との闘争を生み出すこととなる。これを防ぐため「社会契約」を結ぶ。
 それはそれぞれの個人が、(他の人も皆同様にするという条件で)自己の『第一自然権』による全てのものに対する権利を放棄する。そうすることによって無限な権利が国家権力-主権-となる。
・国家が無限な権力を握ってはじめて社会の治安、秩序ができ、人間生活が可能となる。なぜ国民が政府の命令(法律)に従うべきかに答えることができるようになる。でなければ「自然の状態」に戻る。これは義務ではなく、恐怖である。(ルソーが指摘するところ)自分の良心に従うことと政府の命令に従うことは別であり、この区別が自由人の大前提となる。「リバイアサン」にはこの前提は許されない。恐怖政治である。
 政府が社会契約を破り暴君政治になることを「反乱」といい、国民がその反乱政府を倒し新しい政府を建てることを「革命」という。(ロック)


 夕食は重湯とすまし汁。朝と昼には重厚ゼリーそれに牛乳、乳飲料が付いていた。胃はないというものの、何か買って食べなければもたない。
 かみさんからメール。帰ってきたようだ。冒頭の、駅に送って以来になる。実家に帰ったのだが遠いので入院のことは知らせなかった。明日行くとのこと。


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狂牛病(BSE)情報1181 カナダで40人以上のヒトの狂牛病? [平成阿房伝]

CBC News 2021年3月18日

 カナダのNew Brunswickでクロイツフェルトヤコブ病(CJD)に似た原因不明の患者が40人以上発生
 覚書はブランズウィックの医療従事者に回され、症状はクロイツフェルトヤコブ病と同様のものであるとされた。

 
 公衆衛生局は40人以上の子の病気の集団発生を追跡中であると報告。

 Radio-Canadaが入手したこの内部メモは3月5日地方医務官から当地の医学会と医療従事者に送られたものである。内容は、原因不明の進行性神経症の患者が42人以上見つかったというものである。
 
最初に診断されたのは2015年。3年後の2019年に11名。24人が2020年に。6人が2021年。そのうち5名が死亡。

この病気は年齢層にかかわらず、ニューブランズウィックの北東Acadian半島と南東のMncron地方に集中している。

この件に関して神経科医Alier Marreroが主となって調査した報告によると、この病気は遺伝的なものではなく水、食糧や空気が原因ではないかとしている。

 カナダにおいて他でこのような病気の報告はない。

「今のところこの地方だけでみられるだけだ」とMrrero医師は言う。

  新しい病気の可能性
 2015年以降発見されたこの病気は、クロイツフェルトヤコブ病やその変種、あるいは狂牛病(牛スポンジ状脳症)BSEも含まれる。

 しかし多くの類似性があるにもかかわらず、クロイツフェルトヤコブ病検査ではよく知られているプリオン病ではないと公衆衛生課は述べている。

 研究者はプリオン病の変種の可能性、あるいは全く新しい病気の可能性をみている。

 症状からクロイツフェルトヤコブ病も一つの可能性、あるいは他のプリオン病の可能性はあるとMarrenoは言う。

今まで分かった症例はカナダクロイツフェルトヤコブ病調査委員会に報告されたものである。それらが報告された時期に住んでいた地域が北東とMoncron地方であった。

 Marreroは今回のケースを性急にプリオン病と決めつけるべきではないという。
 

   症状は18ヶ月から36ヶ月で進行する
 
症状は異常な行動、不眠症、痛みの愁訴、幻視、筋肉の痙攣と脳の萎縮がみられる。
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伝念入院記12 5回目入院 その1いつもと違う?  [伝念入院記]

2021年2月25日(木)晴
2018年回想
 肝臓の嚢胞が感染して入院した。肝臓の嚢胞を治療して固定した。7月の定期検診で腸ろうから解放されることになった。
 8月には知り合いの妙高にある別荘で過ごすことが出来た。何度も詰まることはあったが大事には至らなかった。9月になって山に入るべく歩き出すことに心がけた。少し歩くだけで衰えた筋肉はなかなか元には戻らない。それでも少しずつ歩いて行くことでキノコ狩りの全コースをやっとの思いで歩き通すことが出来るようになった。10月の半ばになっていただろう。このとき、体に良いと木の実類を意識的に食べるようにした。というのは昔、人参を輸入して売ろうとして知り合いがその段取りをしていた。そのとき輸入相手の金氏が、いつも何かの木の実を食べていたという話を聞いた。その顰みに倣って昼食代わりにクリ。そしてアーモンド、クルミ、ピスタチオ、トウモロコシ等をかなりの頻度で食した。コーンが堅く消化に悪いだろうと思っていた、アーモンドもそうだろう。消化が悪ければ食べないでおこうとは思っていたが、一応消化していたので食べ続けた。それが大変な結果になろうとは・・・。


2018年 5回目の入院
11月12日(月)晴
 2ヶ月振りの病院か、シンチ検査である。8時過ぎに家を出る。9時に造影剤の注射をして家に戻る。13時のレントゲンまで用事が無い。かみさんが実家に帰るので最寄りのJRの駅まで送る。
 昨日昼ラーメンを食った後が重い。食後横になるが一向によくならない。テレビの囲碁を観ていたが集中できない。晩飯は食べなかった。娘が買ってきたケーキも食べなかった。で、粥を作った。半分食べたが途中で放棄する。こんなことが昨日あった。
 13時前に病院に戻る。リハビリの先生に出会う。シンチ検査を受けた後、消化器外科に相談する、昨日来のことを。主治医は今不在だが、代わりの医者が診るという。代診の医師はこのままでは肺炎になると言う。入院だと。その後主治医の手が空き相談する。結果、あの透視造影検査を受ける。鼻からチュ-ブを入れて吸引するも叶わず、とりあえず入院することとなる。用意して出直すということで、息子に連絡して返事を待つ。早めに帰ってくれたので21時の消灯には間に合った。


11月13日(火)晴
 例の知り合いの看護師が担当だった。名札を見ると姓が違う。変わっていた。髪も少し変わっていた。
一日中寝転んで過ごす。


11月14日(水)曇
 13:00に透視造影検査室。造影してレントゲンを撮る。吸引の反応があり、下にも抜けているという。
 この3日間大をしていないので便秘を心配していたが、検査の後3回続けてトイレに駆け込む。便秘が解消。その後薄ら寒い。


11月15日(木)晴
 23:30頃、点滴のアラーム音で起こされる。後はほとんど眠れず。痛み止めと眠剤をセットで注入しているが眠れない。朝まで起きて採血に付き合う。
 10時頃上部消化管内視鏡検査。チューブを通したまま内視鏡を入れる。問題なく挿入された。問題の箇所には内容物はあまりなかった。やっぱり食べ過ぎで大腸部分がくたばっていたのだ。手術の繋ぎ方が分かった。
 食道の残った部分と大腸の半分を繋いでいるのだが、その間に大腸につながった小腸をL字型にして食道と繋いでいるのだ。食道と小腸を直接繋げない、だから小腸をL字にして繋ぎやすくしている。接着した箇所は、肉が盛り上がるので狭くなる。そこに食べたものが詰まりやすくなる。大腸は十二指腸と繋いである。ということは小腸の最後が残った半分の大腸に繋がれたことになるのだろう。時々腸閉塞を起こしている。腸ろうでチューブを入れたところと大腸と十二指腸を繋いだところ、それに小腸と大腸を繋いだところということか。
13時に再び透視造影検査室にて点滴用の点滴用の血管を探す。上腕部に造設。そうしないと点滴量を確保できないという。6月の入院以降、採血の困難な血管となった。全て抗がん剤のもたらしたことだ。


11月16日(金)晴後曇
 10時頃予定の透視造影検査が9時になり、O看護師が送り迎えに来てくれる。検査の結果、全て流れたと確認。チューブを抜く。昼からではなく、夕食からおもゆ開始。
 今朝の飛行機雲は長い時間一直線で少しずつ膨らんでいった。西から東へか、東から西へは見ていない。昼食代わりにアイスクリームを食う。やっぱり下痢だ。かっぱえびせんを喰う。消化剤が朝からでているので飲む。一つは漢方。
 夕食はおもゆもおもゆ、米粒が見当たらない。それとイトサユリのペースト。全く足りませんとかっぱえびせん。そうすると詰まる感触。これはいけない、少し歩く。消化剤もきっちり飲む。
 月曜日に退院できないか問い合わせるが、もう少し様子をみるという。外出はOKらしい。
 頼んでおいた眠剤はゾルビデム10ミリグラム。消化剤として大建中湯、エクセラーゼ配合。



タグ:シンチ検査
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伝念入院記11 4回目入院その2  [伝念入院記]

詰まる

6/2(土)晴
 昼、薬を注入。途中で詰まる。新しく処方された薬で溶けにくく、詰まりやすかったみたいだ。詰まりはなかなか解消されず、他の男性医師(?)が登場。ワイヤーを挿入しょうとする、それはやめて欲しいというこちらの思いも空しく、彼は試みる。でもうまくいかなかった。わたくしは小さいピストンで何とかなると訴える。外科で詰まったときそうしていたのである。内科と外科との接点はないのか、このような点滴をすることはないのか、詰まりにあまり慣れていないと感じた。小さいピストンで何とか詰まりが解消した。薬を入れるとまた詰まった。何とか通すことが出来た。もうこの薬は使わないことに・・・。その最中にかみさんと娘がやって来る。本を届けてくれる。処置に時間がかかって、終わった頃には彼女たちは居なくなってしまった。帰ってしまったらしい。
点滴が漏れる。抗生物質の点滴だけになる。あと一回となる。

6/3(日)晴
 終わったはずの抗生物質の点滴がまだあった。多分ドレインからの液の検査数値がよくなかったのだろう。


6/4(月)晴
 リハビリに行く態勢であったが、看護師が驚いたように腸ろうの管が抜けている、5センチ動いているという。入れるが押すと痛い。担当の医師(I医師)から5センチぐらいなら大丈夫、余裕はとってあると確認。
 20時頃、主治医、I医師がやってきて管を修復、位置の確認をする。しかし管は何となく落ち着きが悪い。早く抜いて欲しいと思った。
 I医師、明日8時嚢胞封じ込めを行うという。


6/5(火)晴後曇
 7時頃から抗生物質痛み止めを注入。
 昨日の話から処置室に行くものと思っていたが、お呼びがかからない。8時を少し過ぎてI医師が入ってくる。
 嚢胞からの廃液を取り出し、薬の注入を行う。鋭い痛みを伴うとI医師は事前に言っていたが、それほどの痛みはなかった。夜になって熱が出た。
 かみさん来る。
 なかなか眠れず、睡眠剤を所望するがもう眠剤は使えないという。仕方なく痛み止めを点滴に入れて貰う。


6/6(水)雨 梅雨入り
 今日の予定はリハビリだけか。
 熱が出る。


6/7(木)晴
 熱が出る。多分予定通りにはならない。


6/8(金)雨
 朝採血。この結果で退院が決まる。しかし管(ドレイン)を抜くという話はあっても無理だろうと思っていた。熱が出る。
 かみさん来る。
 20時頃、I医師今日の採血の結果を持ってくる。あと少し抗生物質棟の点滴は続けると・・・。数値が10以下であれば終えるつもりであったが、11以上なのでもう少し注入を続けるという。


6/9(土)曇
 熱がまだ出る。


6/10(日)曇
 朝食後I医師来る。明日管を抜くとのこと。説明をしたい、火曜日か水曜日はどうかと。


6/11(月)曇後晴
 台風の影響はほとんど無い。
 1時半頃目が覚めて眠れなかった。今朝は採決予定だ。いつもなら6時前後であった。7時半過ぎても現れなかった。やっと現れたが下手で痛かった。随分時間がかかった。それで遅れたのだろうか?
 1時間ほどして血液の量が足りないのでもう一度採血させて欲しいという。前に採血した看護師かと問うと、空いていたので担当させられたという。彼女はきちんと採血していた。ほどなく主治医の助手(?)がやってきて血液の量が足りないという。先ほど採血していったと伝える。


6/12(火)曇
 17時少し前にかみさんやって来る。すぐに説明が始まる。2回目の処置が効いた。CRPの値もよくなった。嚢胞が感染したのは、抗がん剤で免疫力が落ちていたからだろう。何に感染したか培養してみたが、感染元が消滅して分からなかったという。処置(固定)の評価はclassⅡ。癌になる可能性もあるということ。しかし経過から癌になるとは思えないとI医師。土曜日に退院決定。


6/13(水)曇
 5時半頃採血。採血はまだあるらしい。
 リハビリは送迎無しで歩いて行く。歩いて行けるのだが車いすで送迎される決まりになっていた。 

追記
 腸ろうからの栄養液の注入は、入院中は24時間続けられた。退院後は400ccを8時間で注入する。トイレに行くときその都度機械を止めてまた装着して動かすということを繰り返す。7月の定期検診の後、腸ろうをやめることになった。腸ろうからの解放は嬉しかった。
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伝念入院記10 4回目入院その1 歩けない [伝念入院記]

歩けない
2018年5/28(月)曇 晴 雨降らず
5/25(金)這々の体で病院の受付に辿り着く。歩くのに難儀する。採血をするように指示される。えーっ、まだ歩けというのかと思ったが、車いすを用意しましょうかと言われてそこまでもという気になり、しんどい体を採血に向けた。歩くのがこんなに大変なのは初めてである。10メートルおきに椅子を置いて欲しいと切実に思った。いや5メートルか。

 主治医T医師を受診。歩けない、しんどい現状を訴える。胆嚢が影響しているかもしれない、とりあえず消化器内科を受けるように段取りしてくれる。エコーの準備が出来て受診する。触診されてるとき突然吐き気を催し、吐いてしまう。エコーでの見立てで、どうも肝臓の嚢胞が何かに感染しているらしいと言う。そのまま入院となり、レントゲン透視で処置することとなった。処置室でレントゲンを透視しながら嚢胞の中身を吸出していくという。大きい嚢胞、10㎝ぐらいから始める。中身を回収すると3,500ccもあった。驚くほどの量であろう。あれほどしんどかったのが随分楽になった。確かに原因は嚢胞の感染で肝硬変と同じ症状だった。残り小さいのが4,5個ある。それは後日ということでそのまま入院する。4C棟への入院。今まで入院していた4D棟と反対の建物だった。要するに内科と外科が廊下を隔てて正反対に位置していた。かみさんに連絡。息子にクルマの移動を依頼する。
5/26(土) 午前中、ドレインの修復に少し時間をとる。ドレインは昨日処置した嚢胞から滲み出る液を体外に排出するビニール管である。嚢胞の中身をチェックして次の処置をする。そのドレインに不具合が生じたのであった。
 5/28(月)1時半過ぎ病室から外に出ると人集り。思い出した、I医師が1時頃にはベッドに居て欲しいといっていた。このことか、教授回診、ぞろぞろ金魚のうんちがくっついている。こんなことやっているのだな、ドクターXの世界だ。揶揄としての「白い巨塔」の残滓を象徴しているものと思っていた。まさか現実にこんなことをしているとは思ってもいなかった。消化器外科では教授回診ていうものはなかったからだ。わたくしの症例は珍しく、I医師が教授に説明する。教授は形式的にわたくしの肝臓に聴診器を当てる。それで次の部屋に移っていく。へーという言葉しか思いつかない。


5/29(火)曇
 15時予定の処置が9時からになった。残りの小さな嚢胞の中身を吸出する。500cc前後か。合計4,000cc。ということで4月の手術で体重が45キロであったから、結局体重は41㎏ということと相成った。2002年の三分の二の胃の切除で65㎏あった体重が51㎏になってしまい、いくら食べても体重は増えなかった。それが41㎏になってしもうた。
 16時半過ぎから今回のことをI医師が説明するということで、かみさんは4時前に来ていた。 


5/31(木)曇
 5/28の夕から食事が出る。三分粥。食えるがすぐに膨張感、膨満感。どれ位の量が適当か、見当も付かない。以前と違ってかなり食べる。直後水便。その繰り返し。
 12時半頃、我が主治医T医師現る。肝臓の嚢胞処置終了まで消化器内科にいることになると。退院するまで適時指示は出すという。
 16:00頃リハビリ担当者が訪れる。明日から彼女の担当でリハビリ開始する。
 I医師、週明けにもドレインの撤去を予定していると伝える。
 19:00頃M医師来る。彼がI医師指示のもとで嚢胞の処置を行ったのである。明日から研修とかで暫く留守にするという。


6/1(金)晴
 7:30頃M医師研修前に来たる。週明けに造影剤でCT。その結果で治療を終えるという。そして処置した嚢胞から液が滲出しないようにする予定だという。

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伝念入院記9手術入院つづき  [伝念入院記]

手術当日
4/11(水)曇
 5時過ぎに目覚める。昨日の様子じゃ眠れないことが多い。しかしよく眠った。
O看護師が今日担当してくれる。手術室まで付き添ってくれる。嬉しい気分だ、こういう気分はここ何年も味わったことがない。娘とかみさんが見守ってくれていた。


      夢か現か

 目が覚めたように思った。手術室から出て行くときだったように思う。部屋を出て行くときスタッフが「手術は成功しました」と笑顔で見送ってくれたようだ。ふと思った。どんな場合でも「成功した」というだろうに・・・。
 規則正しい振動音が耳に響く。考えてみれば、これがわたくしの生きているしるし。心臓の脈動だった。しかし時間が経つに従って弱々しく響いていくのも確認できた。このまま心音が途絶えていくのではないか、あの「成功した」というのはやはり単に社交辞令に過ぎなかったのか、まやかしだった等々。疑心暗鬼が去来する。
 雨が激しく降っているようだ。この建物の中でもそう確認できたのであるから相当激しい雨だった。そのうち心音も持ち直してきたようだ。また力強い鼓動を耳に響かせてくるように思えた。
 また気付くとベッドの横で手術に関わったと思われるスタッフが打ち合わせをしているようであった。何を話しているのか分からなかったが「アル中」ということばが印象に残っている。
 婦長さんが個室に移ると言った。個室にかかる費用は言わなかった。1日3万円の差額など払える訳がない。そのときどのような部屋にいたのか。ICUに入っていたはずだが、分からない。とりあえず個室に移ったのだ。


4/18(水)曇
 術後の回操(ママ、回想か)。やっと痛みになれてきた。しかし昨晩も眠れなかった。小生は順調に経過しているとのこと。
 4/16(月)無意識下、鼻の管を抜く。あまりにも長い管が入っていたのに驚く。抜いてはだめだったのだ。胸にはめられた動脈への点滴も抜きそうになった。が、看護師が止めた。尿の管を抜く。(譫妄が現れたようだ)
 9時過ぎ液体を飲んでレントゲン。吐きそうな液体を無理矢理嚥下する。咳き込む。すんなり流れているようには見えない。主治医、TDrが操作する。ついでにCTも撮る。


4/19(木)晴
 ひんやりとした空気、寒い。しかし、掛け毛布が2枚必要かと言えばそうでもない。とにかく1枚では寒い。昨日より今日の方が寒く感じた。
 10時頃部屋の移動だという。その前にややこしい装置は外して貰った。今日で個室の使用は終わった。結局7日間の個室か。


4/20(金)晴
 あまり眠れず。食べてすぐ横にならないよう、主治医が促す。食べた後は何となくもやもやしている。だから横になることですっきりするように思っていた。というより楽な気がしていた。
 リハビリ月から金。レントゲンも同じ。
 かみさん17時頃やってくる。
4/23(月)晴
 4/21,4/22,快晴、外は夏日らしい。時間が早く経つが、考えてみれば手術から2週間は経っていない。痛みがあるのは当然なのだろう。しかし、だんだん我慢できるようになってきた。粥の食事が始まっている。食べてみてひっかかる。量を抑えることで何とかのみ込める。ものによってはすぐに咳き込んでしまい、咳が暫く止まらない。飲み込みやすいか、飲み込みにくいかを食べながら吟味する必要がある。
 T医師が血液補給が必要ではないかと言っていると今日担当の看護師が言う。T医師が現れて体力の回復に必要だという。どうしても必要なら考えてみると答えて置いた。血液剤にはウイルスが入っている可能性があるので躊躇するのである。後日他の入院で使ったが・・・。
 14時頃、事務方が姉が見舞いに来たと告げる。唐突のことでどうしょうかと悩む。会いたくはなかった。結論を出せずに悩んでいると、事務方はそこを慮って、「体調が悪い」旨を告げましょうかという。思わずお願いします、であった。後でドライフラワーのようなものが届けられた。知らなかったのだが、普通の生花を病室に飾るのは禁止になっていたんだ。


4/30(月) 退院。
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