石のつぶやき714 「あまちゃん」から五輪 池澤夏樹 [平成阿房伝]
10月1日(火)13 朝日新聞夕刊
終わりと 始まり 池澤夏樹
[あまちゃん」から五輪
・希望の設計と未来図
どんな場合にも希望は必要、そう人は言う。
考えてみれば希望はいつだってあるのだ。九回裏に逆転ホームラン、あるいはロスタイムで長いシュートがキーパーの手をすり抜けてゴールに入る。それはいつでも起こり得る。
我々は昔から無常観で生きてきたが、その考えによれば、すべては変わりゆくのだから悪い方への変化と同じようによい方に事態が向かう可能性も常にあるはずだ。
一神教ならばすべては神が決める。だが神意は計りがたいから何が起こるか人間にはわからない。つまり最後の審判の日まで希望はある。
個人だけでなく政治にも希望は必要だ。政治は国民に希望を操作する技術だとも言える。提示されるものが真の希望であるかどうか、国民はその点を見きわめなければならない。
NHKの朝の連続テレビ小説「あまちゃん」が大人気のうちに終わった。みんな気抜けして、これから朝をどう始めようかと戸惑っている。
「あまちゃん」は政治ではないが、希望の扱いにおいて脚本を書いた宮藤官九郎の配慮は周到だった。
あの時期の東北の太平洋岸を舞台にするというのはハンディキャップだ。それを負うと決めたところでまず視聴者の興味を引いた。明るいことが建前の朝の連ドラでいったい3・11をどう扱うつもりなのか?
時期の設定がうまい。話は二〇〇八年の夏から始まる。やがて二〇一一年の三月十一を経て二〇一二年の七月一日まで。この流れの中で震災が起こるのは話の九割を過ぎてからだった。
震災そのものをリアルに描かない。鉄道の被害は北三陸駅の中の模型で示されるし、広域の瓦礫(がれき)も映さない。
何よりもモデルの地を岩手県の久慈にしたところが巧妙だった。ここは相対的に見ればまだ被害が少なかったところだ。死者四人行方不明二人を少ないとは言えないが(たとえ一人だって遺(のこ)された者は辛(つら)い思いをする)、しかしドラマの登場人物の周辺で誰も亡くならなかったのは不自然ではなかった。
また北三陸鉄道のモデルになった三陸鉄道北リアス線は震災の五日後には久慈から陸中野田まで列車を走らせていた。運と努力のたまものだ。
この地ならば復旧がうまくいった例として連ドラの舞台にできるし、さらにその先に待つ復興への期待のうちに話を終えられる。
水を差すつもりはないが、被害も復旧・復興もあんなものではない、というのが被災地の人たちの実感だろう。本当はあの後が大変なんだという声もある。それでも震災体験を日本全体で共有するとなるとあれくらいが限度だったのか。なんといっても朝ドラ、一日の元気の元なのだからそんなに思いリアルな話にはできない。 それが希望の設計であり、ある意味で政治的な計算の成果でもあった。
さて、オリンピック。
今の日本、暗い話ばかりで嫌になるという声が高い。問題山積はわかっているけどしばらく忘れたふりをしてバーッとお祭りで景気づけ、という思いが(敵失もあって)うまく具体化したというところだろうか。都知事の顔が往年の無責任男・植木等に重なって見えたりして。
七年後にお祭りというのは悪い話ではない。たしかに一つの希望ではある。ただその設計は「あまちゃん」には遠く及ばない気がする。
まず理念が問題。隣国との関係悪化とオリンピックの理想はどうやれば折り合いがつくのだろう?
いよいよひどいことになってボイコットされたらそれは日本外交の敗北である。
ロンドン大会の開会式のような成功を裏付ける文化的な資産はこの国にあるか?文化関係の予算は先進国中で最低レベルなのに。
ハードウエアの話がまず来るのはどういうことだ?新しい国立競技場が大きすぎるという建築家の意見は無視できない。こんな大きな御輿(おみこし)、祭りが終わったらどこにしまうんだ?
それでなくともハード先行ソフト軽視の国である。防災・減災というと真っ先に「国土強靱(きょうじん)化計画」とか叫んでコンクリートに走る。釜石の子どもたちを救ったのは防潮堤ではなく正しい方針に基づいた日頃の訓練だった。
そして、首相の「汚染水の影響は完全にブロックされている」という発言。本当にそうならいいけれど福島のここまでは嘘(うそ)と隠蔽(いんぺい)と失敗と漏洩(ろうえい)ばかりだった。それを承知でああ言い切ってしまうのが政治家なのだろうか。
オリンピックは七年後に向けた希望の表明であるが、その裏付けはまこと心許(こころもと)ない。「あまちゃん」は過去を素材にしていたから希望を構築できたが、オリンピックは未来だ。まさかぐらつく足下を凍結工法で固めるわけにもいくまいに。
終わりと 始まり 池澤夏樹
[あまちゃん」から五輪
・希望の設計と未来図
どんな場合にも希望は必要、そう人は言う。
考えてみれば希望はいつだってあるのだ。九回裏に逆転ホームラン、あるいはロスタイムで長いシュートがキーパーの手をすり抜けてゴールに入る。それはいつでも起こり得る。
我々は昔から無常観で生きてきたが、その考えによれば、すべては変わりゆくのだから悪い方への変化と同じようによい方に事態が向かう可能性も常にあるはずだ。
一神教ならばすべては神が決める。だが神意は計りがたいから何が起こるか人間にはわからない。つまり最後の審判の日まで希望はある。
個人だけでなく政治にも希望は必要だ。政治は国民に希望を操作する技術だとも言える。提示されるものが真の希望であるかどうか、国民はその点を見きわめなければならない。
NHKの朝の連続テレビ小説「あまちゃん」が大人気のうちに終わった。みんな気抜けして、これから朝をどう始めようかと戸惑っている。
「あまちゃん」は政治ではないが、希望の扱いにおいて脚本を書いた宮藤官九郎の配慮は周到だった。
あの時期の東北の太平洋岸を舞台にするというのはハンディキャップだ。それを負うと決めたところでまず視聴者の興味を引いた。明るいことが建前の朝の連ドラでいったい3・11をどう扱うつもりなのか?
時期の設定がうまい。話は二〇〇八年の夏から始まる。やがて二〇一一年の三月十一を経て二〇一二年の七月一日まで。この流れの中で震災が起こるのは話の九割を過ぎてからだった。
震災そのものをリアルに描かない。鉄道の被害は北三陸駅の中の模型で示されるし、広域の瓦礫(がれき)も映さない。
何よりもモデルの地を岩手県の久慈にしたところが巧妙だった。ここは相対的に見ればまだ被害が少なかったところだ。死者四人行方不明二人を少ないとは言えないが(たとえ一人だって遺(のこ)された者は辛(つら)い思いをする)、しかしドラマの登場人物の周辺で誰も亡くならなかったのは不自然ではなかった。
また北三陸鉄道のモデルになった三陸鉄道北リアス線は震災の五日後には久慈から陸中野田まで列車を走らせていた。運と努力のたまものだ。
この地ならば復旧がうまくいった例として連ドラの舞台にできるし、さらにその先に待つ復興への期待のうちに話を終えられる。
水を差すつもりはないが、被害も復旧・復興もあんなものではない、というのが被災地の人たちの実感だろう。本当はあの後が大変なんだという声もある。それでも震災体験を日本全体で共有するとなるとあれくらいが限度だったのか。なんといっても朝ドラ、一日の元気の元なのだからそんなに思いリアルな話にはできない。 それが希望の設計であり、ある意味で政治的な計算の成果でもあった。
さて、オリンピック。
今の日本、暗い話ばかりで嫌になるという声が高い。問題山積はわかっているけどしばらく忘れたふりをしてバーッとお祭りで景気づけ、という思いが(敵失もあって)うまく具体化したというところだろうか。都知事の顔が往年の無責任男・植木等に重なって見えたりして。
七年後にお祭りというのは悪い話ではない。たしかに一つの希望ではある。ただその設計は「あまちゃん」には遠く及ばない気がする。
まず理念が問題。隣国との関係悪化とオリンピックの理想はどうやれば折り合いがつくのだろう?
いよいよひどいことになってボイコットされたらそれは日本外交の敗北である。
ロンドン大会の開会式のような成功を裏付ける文化的な資産はこの国にあるか?文化関係の予算は先進国中で最低レベルなのに。
ハードウエアの話がまず来るのはどういうことだ?新しい国立競技場が大きすぎるという建築家の意見は無視できない。こんな大きな御輿(おみこし)、祭りが終わったらどこにしまうんだ?
それでなくともハード先行ソフト軽視の国である。防災・減災というと真っ先に「国土強靱(きょうじん)化計画」とか叫んでコンクリートに走る。釜石の子どもたちを救ったのは防潮堤ではなく正しい方針に基づいた日頃の訓練だった。
そして、首相の「汚染水の影響は完全にブロックされている」という発言。本当にそうならいいけれど福島のここまでは嘘(うそ)と隠蔽(いんぺい)と失敗と漏洩(ろうえい)ばかりだった。それを承知でああ言い切ってしまうのが政治家なのだろうか。
オリンピックは七年後に向けた希望の表明であるが、その裏付けはまこと心許(こころもと)ない。「あまちゃん」は過去を素材にしていたから希望を構築できたが、オリンピックは未来だ。まさかぐらつく足下を凍結工法で固めるわけにもいくまいに。
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