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伝念入院記13 5回目入院その2 [平成阿房伝]

11月17日(土)晴
 夜明けの西空は雲の階層が出来ていたが明けるに従って消えていった。一直線の飛行機雲が出来ていたが昨日より鋭さはなく、線は膨らんでいった。
 
 少し復習する。
 憲法は政府に対する命令である。(ダグラス・ラミス)
 今の政治は、ファシズムである。議会で多数を得ることはこういうことが出来るということ。憲法を無視したり、今まで連綿と紡いできた了解事項をこともなげに覆して平然としている政権を指をくわえて見つめるしかないのである。国会で嘘を平気につき、責任をとらないことが当たり前になっている。あるものも隠し、答弁の都合に合わせて改竄もする。日本はすでに喜んで戦争するファシズムの国となってしまった。アメリカの奴隷という立ち位置は変わらないが・・・。

 「社会契約論」(トマス・ホッブス)の成立について
 『リバイアサン』より
 人間の行為の動機は「傲慢」と「恐怖」からである。
 国家の正当性は、政府がなければ「自然な状態になる」。
 「自然な状態になる」は、国家が消えてしまった状態で、個人と個人の闘争が起こることになる。「第一自然権」(あらゆるものを自分のものにする権利)は、万人と万人との闘争を生み出すこととなる。これを防ぐため「社会契約」を結ぶ。
 それはそれぞれの個人が、(他の人も皆同様にするという条件で)自己の『第一自然権』による全てのものに対する権利を放棄する。そうすることによって無限な権利が国家権力-主権-となる。
・国家が無限な権力を握ってはじめて社会の治安、秩序ができ、人間生活が可能となる。なぜ国民が政府の命令(法律)に従うべきかに答えることができるようになる。でなければ「自然の状態」に戻る。これは義務ではなく、恐怖である。(ルソーが指摘するところ)自分の良心に従うことと政府の命令に従うことは別であり、この区別が自由人の大前提となる。「リバイアサン」にはこの前提は許されない。恐怖政治である。
 政府が社会契約を破り暴君政治になることを「反乱」といい、国民がその反乱政府を倒し新しい政府を建てることを「革命」という。(ロック)


 夕食は重湯とすまし汁。朝と昼には重厚ゼリーそれに牛乳、乳飲料が付いていた。胃はないというものの、何か買って食べなければもたない。
 かみさんからメール。帰ってきたようだ。冒頭の、駅に送って以来になる。実家に帰ったのだが遠いので入院のことは知らせなかった。明日行くとのこと。


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狂牛病(BSE)情報1181 カナダで40人以上のヒトの狂牛病? [平成阿房伝]

CBC News 2021年3月18日

 カナダのNew Brunswickでクロイツフェルトヤコブ病(CJD)に似た原因不明の患者が40人以上発生
 覚書はブランズウィックの医療従事者に回され、症状はクロイツフェルトヤコブ病と同様のものであるとされた。

 
 公衆衛生局は40人以上の子の病気の集団発生を追跡中であると報告。

 Radio-Canadaが入手したこの内部メモは3月5日地方医務官から当地の医学会と医療従事者に送られたものである。内容は、原因不明の進行性神経症の患者が42人以上見つかったというものである。
 
最初に診断されたのは2015年。3年後の2019年に11名。24人が2020年に。6人が2021年。そのうち5名が死亡。

この病気は年齢層にかかわらず、ニューブランズウィックの北東Acadian半島と南東のMncron地方に集中している。

この件に関して神経科医Alier Marreroが主となって調査した報告によると、この病気は遺伝的なものではなく水、食糧や空気が原因ではないかとしている。

 カナダにおいて他でこのような病気の報告はない。

「今のところこの地方だけでみられるだけだ」とMrrero医師は言う。

  新しい病気の可能性
 2015年以降発見されたこの病気は、クロイツフェルトヤコブ病やその変種、あるいは狂牛病(牛スポンジ状脳症)BSEも含まれる。

 しかし多くの類似性があるにもかかわらず、クロイツフェルトヤコブ病検査ではよく知られているプリオン病ではないと公衆衛生課は述べている。

 研究者はプリオン病の変種の可能性、あるいは全く新しい病気の可能性をみている。

 症状からクロイツフェルトヤコブ病も一つの可能性、あるいは他のプリオン病の可能性はあるとMarrenoは言う。

今まで分かった症例はカナダクロイツフェルトヤコブ病調査委員会に報告されたものである。それらが報告された時期に住んでいた地域が北東とMoncron地方であった。

 Marreroは今回のケースを性急にプリオン病と決めつけるべきではないという。
 

   症状は18ヶ月から36ヶ月で進行する
 
症状は異常な行動、不眠症、痛みの愁訴、幻視、筋肉の痙攣と脳の萎縮がみられる。
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伝念入院記12 5回目入院 その1いつもと違う?  [伝念入院記]

2021年2月25日(木)晴
2018年回想
 肝臓の嚢胞が感染して入院した。肝臓の嚢胞を治療して固定した。7月の定期検診で腸ろうから解放されることになった。
 8月には知り合いの妙高にある別荘で過ごすことが出来た。何度も詰まることはあったが大事には至らなかった。9月になって山に入るべく歩き出すことに心がけた。少し歩くだけで衰えた筋肉はなかなか元には戻らない。それでも少しずつ歩いて行くことでキノコ狩りの全コースをやっとの思いで歩き通すことが出来るようになった。10月の半ばになっていただろう。このとき、体に良いと木の実類を意識的に食べるようにした。というのは昔、人参を輸入して売ろうとして知り合いがその段取りをしていた。そのとき輸入相手の金氏が、いつも何かの木の実を食べていたという話を聞いた。その顰みに倣って昼食代わりにクリ。そしてアーモンド、クルミ、ピスタチオ、トウモロコシ等をかなりの頻度で食した。コーンが堅く消化に悪いだろうと思っていた、アーモンドもそうだろう。消化が悪ければ食べないでおこうとは思っていたが、一応消化していたので食べ続けた。それが大変な結果になろうとは・・・。


2018年 5回目の入院
11月12日(月)晴
 2ヶ月振りの病院か、シンチ検査である。8時過ぎに家を出る。9時に造影剤の注射をして家に戻る。13時のレントゲンまで用事が無い。かみさんが実家に帰るので最寄りのJRの駅まで送る。
 昨日昼ラーメンを食った後が重い。食後横になるが一向によくならない。テレビの囲碁を観ていたが集中できない。晩飯は食べなかった。娘が買ってきたケーキも食べなかった。で、粥を作った。半分食べたが途中で放棄する。こんなことが昨日あった。
 13時前に病院に戻る。リハビリの先生に出会う。シンチ検査を受けた後、消化器外科に相談する、昨日来のことを。主治医は今不在だが、代わりの医者が診るという。代診の医師はこのままでは肺炎になると言う。入院だと。その後主治医の手が空き相談する。結果、あの透視造影検査を受ける。鼻からチュ-ブを入れて吸引するも叶わず、とりあえず入院することとなる。用意して出直すということで、息子に連絡して返事を待つ。早めに帰ってくれたので21時の消灯には間に合った。


11月13日(火)晴
 例の知り合いの看護師が担当だった。名札を見ると姓が違う。変わっていた。髪も少し変わっていた。
一日中寝転んで過ごす。


11月14日(水)曇
 13:00に透視造影検査室。造影してレントゲンを撮る。吸引の反応があり、下にも抜けているという。
 この3日間大をしていないので便秘を心配していたが、検査の後3回続けてトイレに駆け込む。便秘が解消。その後薄ら寒い。


11月15日(木)晴
 23:30頃、点滴のアラーム音で起こされる。後はほとんど眠れず。痛み止めと眠剤をセットで注入しているが眠れない。朝まで起きて採血に付き合う。
 10時頃上部消化管内視鏡検査。チューブを通したまま内視鏡を入れる。問題なく挿入された。問題の箇所には内容物はあまりなかった。やっぱり食べ過ぎで大腸部分がくたばっていたのだ。手術の繋ぎ方が分かった。
 食道の残った部分と大腸の半分を繋いでいるのだが、その間に大腸につながった小腸をL字型にして食道と繋いでいるのだ。食道と小腸を直接繋げない、だから小腸をL字にして繋ぎやすくしている。接着した箇所は、肉が盛り上がるので狭くなる。そこに食べたものが詰まりやすくなる。大腸は十二指腸と繋いである。ということは小腸の最後が残った半分の大腸に繋がれたことになるのだろう。時々腸閉塞を起こしている。腸ろうでチューブを入れたところと大腸と十二指腸を繋いだところ、それに小腸と大腸を繋いだところということか。
13時に再び透視造影検査室にて点滴用の点滴用の血管を探す。上腕部に造設。そうしないと点滴量を確保できないという。6月の入院以降、採血の困難な血管となった。全て抗がん剤のもたらしたことだ。


11月16日(金)晴後曇
 10時頃予定の透視造影検査が9時になり、O看護師が送り迎えに来てくれる。検査の結果、全て流れたと確認。チューブを抜く。昼からではなく、夕食からおもゆ開始。
 今朝の飛行機雲は長い時間一直線で少しずつ膨らんでいった。西から東へか、東から西へは見ていない。昼食代わりにアイスクリームを食う。やっぱり下痢だ。かっぱえびせんを喰う。消化剤が朝からでているので飲む。一つは漢方。
 夕食はおもゆもおもゆ、米粒が見当たらない。それとイトサユリのペースト。全く足りませんとかっぱえびせん。そうすると詰まる感触。これはいけない、少し歩く。消化剤もきっちり飲む。
 月曜日に退院できないか問い合わせるが、もう少し様子をみるという。外出はOKらしい。
 頼んでおいた眠剤はゾルビデム10ミリグラム。消化剤として大建中湯、エクセラーゼ配合。



タグ:シンチ検査
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伝念入院記11 4回目入院その2  [伝念入院記]

詰まる

6/2(土)晴
 昼、薬を注入。途中で詰まる。新しく処方された薬で溶けにくく、詰まりやすかったみたいだ。詰まりはなかなか解消されず、他の男性医師(?)が登場。ワイヤーを挿入しょうとする、それはやめて欲しいというこちらの思いも空しく、彼は試みる。でもうまくいかなかった。わたくしは小さいピストンで何とかなると訴える。外科で詰まったときそうしていたのである。内科と外科との接点はないのか、このような点滴をすることはないのか、詰まりにあまり慣れていないと感じた。小さいピストンで何とか詰まりが解消した。薬を入れるとまた詰まった。何とか通すことが出来た。もうこの薬は使わないことに・・・。その最中にかみさんと娘がやって来る。本を届けてくれる。処置に時間がかかって、終わった頃には彼女たちは居なくなってしまった。帰ってしまったらしい。
点滴が漏れる。抗生物質の点滴だけになる。あと一回となる。

6/3(日)晴
 終わったはずの抗生物質の点滴がまだあった。多分ドレインからの液の検査数値がよくなかったのだろう。


6/4(月)晴
 リハビリに行く態勢であったが、看護師が驚いたように腸ろうの管が抜けている、5センチ動いているという。入れるが押すと痛い。担当の医師(I医師)から5センチぐらいなら大丈夫、余裕はとってあると確認。
 20時頃、主治医、I医師がやってきて管を修復、位置の確認をする。しかし管は何となく落ち着きが悪い。早く抜いて欲しいと思った。
 I医師、明日8時嚢胞封じ込めを行うという。


6/5(火)晴後曇
 7時頃から抗生物質痛み止めを注入。
 昨日の話から処置室に行くものと思っていたが、お呼びがかからない。8時を少し過ぎてI医師が入ってくる。
 嚢胞からの廃液を取り出し、薬の注入を行う。鋭い痛みを伴うとI医師は事前に言っていたが、それほどの痛みはなかった。夜になって熱が出た。
 かみさん来る。
 なかなか眠れず、睡眠剤を所望するがもう眠剤は使えないという。仕方なく痛み止めを点滴に入れて貰う。


6/6(水)雨 梅雨入り
 今日の予定はリハビリだけか。
 熱が出る。


6/7(木)晴
 熱が出る。多分予定通りにはならない。


6/8(金)雨
 朝採血。この結果で退院が決まる。しかし管(ドレイン)を抜くという話はあっても無理だろうと思っていた。熱が出る。
 かみさん来る。
 20時頃、I医師今日の採血の結果を持ってくる。あと少し抗生物質棟の点滴は続けると・・・。数値が10以下であれば終えるつもりであったが、11以上なのでもう少し注入を続けるという。


6/9(土)曇
 熱がまだ出る。


6/10(日)曇
 朝食後I医師来る。明日管を抜くとのこと。説明をしたい、火曜日か水曜日はどうかと。


6/11(月)曇後晴
 台風の影響はほとんど無い。
 1時半頃目が覚めて眠れなかった。今朝は採決予定だ。いつもなら6時前後であった。7時半過ぎても現れなかった。やっと現れたが下手で痛かった。随分時間がかかった。それで遅れたのだろうか?
 1時間ほどして血液の量が足りないのでもう一度採血させて欲しいという。前に採血した看護師かと問うと、空いていたので担当させられたという。彼女はきちんと採血していた。ほどなく主治医の助手(?)がやってきて血液の量が足りないという。先ほど採血していったと伝える。


6/12(火)曇
 17時少し前にかみさんやって来る。すぐに説明が始まる。2回目の処置が効いた。CRPの値もよくなった。嚢胞が感染したのは、抗がん剤で免疫力が落ちていたからだろう。何に感染したか培養してみたが、感染元が消滅して分からなかったという。処置(固定)の評価はclassⅡ。癌になる可能性もあるということ。しかし経過から癌になるとは思えないとI医師。土曜日に退院決定。


6/13(水)曇
 5時半頃採血。採血はまだあるらしい。
 リハビリは送迎無しで歩いて行く。歩いて行けるのだが車いすで送迎される決まりになっていた。 

追記
 腸ろうからの栄養液の注入は、入院中は24時間続けられた。退院後は400ccを8時間で注入する。トイレに行くときその都度機械を止めてまた装着して動かすということを繰り返す。7月の定期検診の後、腸ろうをやめることになった。腸ろうからの解放は嬉しかった。
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伝念入院記10 4回目入院その1 歩けない [伝念入院記]

歩けない
2018年5/28(月)曇 晴 雨降らず
5/25(金)這々の体で病院の受付に辿り着く。歩くのに難儀する。採血をするように指示される。えーっ、まだ歩けというのかと思ったが、車いすを用意しましょうかと言われてそこまでもという気になり、しんどい体を採血に向けた。歩くのがこんなに大変なのは初めてである。10メートルおきに椅子を置いて欲しいと切実に思った。いや5メートルか。

 主治医T医師を受診。歩けない、しんどい現状を訴える。胆嚢が影響しているかもしれない、とりあえず消化器内科を受けるように段取りしてくれる。エコーの準備が出来て受診する。触診されてるとき突然吐き気を催し、吐いてしまう。エコーでの見立てで、どうも肝臓の嚢胞が何かに感染しているらしいと言う。そのまま入院となり、レントゲン透視で処置することとなった。処置室でレントゲンを透視しながら嚢胞の中身を吸出していくという。大きい嚢胞、10㎝ぐらいから始める。中身を回収すると3,500ccもあった。驚くほどの量であろう。あれほどしんどかったのが随分楽になった。確かに原因は嚢胞の感染で肝硬変と同じ症状だった。残り小さいのが4,5個ある。それは後日ということでそのまま入院する。4C棟への入院。今まで入院していた4D棟と反対の建物だった。要するに内科と外科が廊下を隔てて正反対に位置していた。かみさんに連絡。息子にクルマの移動を依頼する。
5/26(土) 午前中、ドレインの修復に少し時間をとる。ドレインは昨日処置した嚢胞から滲み出る液を体外に排出するビニール管である。嚢胞の中身をチェックして次の処置をする。そのドレインに不具合が生じたのであった。
 5/28(月)1時半過ぎ病室から外に出ると人集り。思い出した、I医師が1時頃にはベッドに居て欲しいといっていた。このことか、教授回診、ぞろぞろ金魚のうんちがくっついている。こんなことやっているのだな、ドクターXの世界だ。揶揄としての「白い巨塔」の残滓を象徴しているものと思っていた。まさか現実にこんなことをしているとは思ってもいなかった。消化器外科では教授回診ていうものはなかったからだ。わたくしの症例は珍しく、I医師が教授に説明する。教授は形式的にわたくしの肝臓に聴診器を当てる。それで次の部屋に移っていく。へーという言葉しか思いつかない。


5/29(火)曇
 15時予定の処置が9時からになった。残りの小さな嚢胞の中身を吸出する。500cc前後か。合計4,000cc。ということで4月の手術で体重が45キロであったから、結局体重は41㎏ということと相成った。2002年の三分の二の胃の切除で65㎏あった体重が51㎏になってしまい、いくら食べても体重は増えなかった。それが41㎏になってしもうた。
 16時半過ぎから今回のことをI医師が説明するということで、かみさんは4時前に来ていた。 


5/31(木)曇
 5/28の夕から食事が出る。三分粥。食えるがすぐに膨張感、膨満感。どれ位の量が適当か、見当も付かない。以前と違ってかなり食べる。直後水便。その繰り返し。
 12時半頃、我が主治医T医師現る。肝臓の嚢胞処置終了まで消化器内科にいることになると。退院するまで適時指示は出すという。
 16:00頃リハビリ担当者が訪れる。明日から彼女の担当でリハビリ開始する。
 I医師、週明けにもドレインの撤去を予定していると伝える。
 19:00頃M医師来る。彼がI医師指示のもとで嚢胞の処置を行ったのである。明日から研修とかで暫く留守にするという。


6/1(金)晴
 7:30頃M医師研修前に来たる。週明けに造影剤でCT。その結果で治療を終えるという。そして処置した嚢胞から液が滲出しないようにする予定だという。

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伝念入院記9手術入院つづき  [伝念入院記]

手術当日
4/11(水)曇
 5時過ぎに目覚める。昨日の様子じゃ眠れないことが多い。しかしよく眠った。
O看護師が今日担当してくれる。手術室まで付き添ってくれる。嬉しい気分だ、こういう気分はここ何年も味わったことがない。娘とかみさんが見守ってくれていた。


      夢か現か

 目が覚めたように思った。手術室から出て行くときだったように思う。部屋を出て行くときスタッフが「手術は成功しました」と笑顔で見送ってくれたようだ。ふと思った。どんな場合でも「成功した」というだろうに・・・。
 規則正しい振動音が耳に響く。考えてみれば、これがわたくしの生きているしるし。心臓の脈動だった。しかし時間が経つに従って弱々しく響いていくのも確認できた。このまま心音が途絶えていくのではないか、あの「成功した」というのはやはり単に社交辞令に過ぎなかったのか、まやかしだった等々。疑心暗鬼が去来する。
 雨が激しく降っているようだ。この建物の中でもそう確認できたのであるから相当激しい雨だった。そのうち心音も持ち直してきたようだ。また力強い鼓動を耳に響かせてくるように思えた。
 また気付くとベッドの横で手術に関わったと思われるスタッフが打ち合わせをしているようであった。何を話しているのか分からなかったが「アル中」ということばが印象に残っている。
 婦長さんが個室に移ると言った。個室にかかる費用は言わなかった。1日3万円の差額など払える訳がない。そのときどのような部屋にいたのか。ICUに入っていたはずだが、分からない。とりあえず個室に移ったのだ。


4/18(水)曇
 術後の回操(ママ、回想か)。やっと痛みになれてきた。しかし昨晩も眠れなかった。小生は順調に経過しているとのこと。
 4/16(月)無意識下、鼻の管を抜く。あまりにも長い管が入っていたのに驚く。抜いてはだめだったのだ。胸にはめられた動脈への点滴も抜きそうになった。が、看護師が止めた。尿の管を抜く。(譫妄が現れたようだ)
 9時過ぎ液体を飲んでレントゲン。吐きそうな液体を無理矢理嚥下する。咳き込む。すんなり流れているようには見えない。主治医、TDrが操作する。ついでにCTも撮る。


4/19(木)晴
 ひんやりとした空気、寒い。しかし、掛け毛布が2枚必要かと言えばそうでもない。とにかく1枚では寒い。昨日より今日の方が寒く感じた。
 10時頃部屋の移動だという。その前にややこしい装置は外して貰った。今日で個室の使用は終わった。結局7日間の個室か。


4/20(金)晴
 あまり眠れず。食べてすぐ横にならないよう、主治医が促す。食べた後は何となくもやもやしている。だから横になることですっきりするように思っていた。というより楽な気がしていた。
 リハビリ月から金。レントゲンも同じ。
 かみさん17時頃やってくる。
4/23(月)晴
 4/21,4/22,快晴、外は夏日らしい。時間が早く経つが、考えてみれば手術から2週間は経っていない。痛みがあるのは当然なのだろう。しかし、だんだん我慢できるようになってきた。粥の食事が始まっている。食べてみてひっかかる。量を抑えることで何とかのみ込める。ものによってはすぐに咳き込んでしまい、咳が暫く止まらない。飲み込みやすいか、飲み込みにくいかを食べながら吟味する必要がある。
 T医師が血液補給が必要ではないかと言っていると今日担当の看護師が言う。T医師が現れて体力の回復に必要だという。どうしても必要なら考えてみると答えて置いた。血液剤にはウイルスが入っている可能性があるので躊躇するのである。後日他の入院で使ったが・・・。
 14時頃、事務方が姉が見舞いに来たと告げる。唐突のことでどうしょうかと悩む。会いたくはなかった。結論を出せずに悩んでいると、事務方はそこを慮って、「体調が悪い」旨を告げましょうかという。思わずお願いします、であった。後でドライフラワーのようなものが届けられた。知らなかったのだが、普通の生花を病室に飾るのは禁止になっていたんだ。


4/30(月) 退院。
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伝念入院記8 手術入院 [伝念入院記]


        手術入院   2018年4月

4/5(木)曇後晴
 9時半過ぎのバスに乗る。電車またバスを乗り継いで、10時半頃病院に着く。手続きで待たされる。
 病棟では415号室のまた同じベッドになった。大腸内視鏡検査のため、下剤を使う。口腔外科で診察。2時間過ぎても下剤の影響なし。16時になって浣腸をする。やっと出る。それからは2時間毎に排便。  
 18時前にかみさん来る。主治医の説明を聞く。どう考えても難度の高い手術である。手術が出来ればそれに越したことはない。医者は言う、病巣をとるのが基本。そして骨癌については放射線治療がまだ出来る。しかし放射線治療は1度だけと言う。手術することにしているが、悩ましい。手術から還ってこれるかと問われたら、自信はない。不安は払拭されることなく主治医の話は終わる。かみさんは、この前聞いたことと違うではないかとさかんに繰り返す。そりゃそうだ、あのときの話では「何もしない」ということだった。わたくしはバイパスを設けなくてはならないときが来るなら、今手術できるうちにしとく方がよいかなというぐらいの判断である。あまりにも難度の高い手術であるから帰還できるかということであれば、自信は無いということだ。でも、ほとんど手術する気でいる。

   初めての大腸内視鏡、ポリープ10個
4/6(金)曇
 9時鼠径部からの採血。そして下剤。心電図そしてレントゲン。循環器内科で診断、心臓はOK。
 16時から下部内視鏡。
 内視鏡検査室に行く途中漏らしてしまう。
 大腸に初めて内視鏡を入れる。ポリープがあり、見つけ次第とっていく。全部で10個除去したと。疲れ果てる。 


4/7(土)曇り晴れ
 夜から今朝8時まで絶飲食。喉が渇く。8時になって栄養剤の注入(腸ろう)開始。昨日食事等一切無し。アイスクリーム、コーヒー、ジュースを仕入れる。
 15時までに朝の腸ろう終わる。続いて高濃度の栄養剤腸ろう、引き続き注入。
 今日も病院食なしか?
 日曜から下剤。栄養剤3回目注入。



4/8(日)快晴気温低し
 一睡も出来ず。睡眠誘導剤を腸ろうから入れたが全く効かなかった。
 栄養剤4回目投入。14:00 5回目。
 ガスは出るが便は出なくなった。アイスクリームを2個喰う。スナオとハーゲンダッツ。あまりうまくなかった。
 シャワー浴びる。
 かみさんにメール。来るなら腸ろうポンプとマウスピースを持ってきてくれるように伝言。マウスピースはここの口腔外科でつくったものだ、5,000円。置いてある場所が分からないだろうから、メールの後電話を入れる。
 かみさんと娘が来る。息子は山の会合らしい。

 昼には寝てしまうと思っていたが眠くはない。

夜11時半になっても眠剤は来ない。テレビ室で時間潰しでもと思い、詰め所に通りかかると担当の看護師が居て、どうしたと聞く。眠剤の話をすると、後で担当する看護師の予定になかったようだ。その後腸ろうから眠剤を注入。昨日は効かなかったが、今度は効いたようだ。目が覚めると6時頃で、採血で起こされた。


4/9(月)快晴
 喉が渇く。腸ろうポンプの業者に電話を入れる。明日午後1時引き取りに来る。
 知り合いのO看護師が今日の担当。勇気づけられる。
 11時まで栄養剤を注入。腸ろう詰まる。難儀する。11時最後の栄養剤 200CC。 14:30から15:00リハビリ室訪問。現在の体力測定。術後部屋に訪問するという。
 16:00 下剤。新しい点滴始まる。
 18:00 下剤終了。下剤が効いてくる。残念ながら思わず漏らしてしまう。よく効く下剤。前とは雲泥の差。
 21時頃眠剤を腸から注入。全く効かなかった。5時近くまで起きていた。その後眠ったらしく、目が覚めると8時半だった。



4/10(火)快晴
 T字帯、パッド等を仕入れる。手術前日準備。
 麻酔事前説明。
 シャワー浴びる。
 14時過ぎ下剤投入。1時間で終了。それから1時間もせぬうちに1回目。そして2回目。また阻喪しそう。
 21時の下剤はなく睡眠誘導剤のみを腸から投入。あまり効かず。零時を過ぎてから電気を消す。




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伝念入院記7 手術日決定 [伝念入院記]

手術日2018年4月11日(水曜)と決定

抗がん剤が効いて患部が小さくなった、手術ができると主治医が提案

2018年3月30日(金)通院
この日主治医が手術の説明書を提示 以下内容
 
 手術・観血的処置等に対する説明書

患者 阿呆伝念様の手術・観血的処置に関して、以下の通り説明しました。

1.現在の診断名と症状について
 胸部下部食道に約4㎝大の食道癌を認め狭窄をきたしています。食道癌は食道壁の一番内側の粘膜と呼ばれる場所から発生し、壁の深い方へと浸潤していきます。それと同時にリンパの流れや血流にのって周囲のリンパ節や他の臓器へと癌細胞が広がっていくといった特性を持っています。食道癌の治療成績や進行度は、深達度(食道壁のどの深さまで癌が浸潤しているか)およびリンパ節転移の広がり、転移している個数によってある程度決まってきます。現在のところ癌細胞の浸潤は食道壁の外膜にとどまっており、リンパ節の転移はありません。他臓器移転については、骨に転移を示唆する所見を認めています。

2.手術(処置)を選択する理由について
 食道癌があり、狭窄をきたしているため、手術により食べ物の通り道を確保する必要があります。食道癌に対する治療法として標準治療は手術、代替治療として化学療法、放射線治療があげられ、狭窄を解除する目的でも同様の治療が選択しに挙がります。現在のところ、手術による癌病巣切除と再建術が経口摂取改善に最もよい方法と考えられます。ただし、今回の手術は骨転移を疑う病変が存在しているので根治切除ではなく、経口摂取改善が目的です。また、通常は根治切除が不可能な場合はバイパス手術といって原発巣は切除せずに食べ物の通り道を橋渡しする手術が選択されますが、今回は病変が切除可能である事、原発が残っていることで出血や感染、窄孔、疼痛の原因となる可能性があるので原発巣は切除する方針とします。

3.他の治療法と手術(処置)をしなかった場合の結果について・セカンドオピニヨンについて     
放射線治療法、制癌剤による化学療法や免疫療法があります。化学放射線療法は約1ヶ月半の治療期間を要して、化学療法と放射線照射を行うものとなります。これにより癌が消滅する可能性もありますが、遺残する可能性もあります。また、癌は消えても狭窄が解除されない可能性もあります。腫瘍の完全消失率は約30ー70%前後といわれています。

4.手術(処置)の具体的方法について
 食道癌におけるリンパ節転移は胸腔内のみならず、頚部から腹部に至る比較的広い範囲にわたって認められるのが特徴です。従って、頚部から腹部に至る比較的広範なリンパ節の除去を行う必要があります。手術は右胸部から約1㎝の穴を4-5カ所あけて、その穴から鉗子を挿入し、手術を行います(胸腔鏡手術)。癒着や何らかの問題があり、胸腔鏡手術が困難であれば通常通りの開胸手術となります。まず胸部の手術を行い、腫瘍のある胸部食道を切除します。つぎに胸骨下縁から臍に至る腹部の正中で切開し、残胃とその周囲のリンパ節を切除し、回結腸(回腸と結腸)を授動します(消化管再建)。また、頚部にも横切開をおき、残った食道を誘導します。再建法は、回結腸を胸骨の後ろを通して頚部まで持ち上げ、残った食道と吻合します。

5.手術(処置)により期待される効果について
 原発巣が切除され経口摂取が可能となる経路ができます。

6.手術(処置)により起こりうる合併症とその頻度・危険性及び緊急時の処置について

食道癌の代表的な術後合併症としては以下のものがあげられます。

 ① 呼吸器合併症(約30%)
 全身麻酔の影響や術中肺を圧排すること、肺への神経が切離されることや郭清に伴い気管への血流が乏しくなることなどの影響により、肺の分泌物の増加や肺の拡張不良が起こります。これにともなって喀痰の排出不全や肺炎、胸水貯留などの合併症が起こりうる可能性が20%程度あります。このような合併症は術後4~5日目より10日目ぐらいにかけ認められるものです。肺は体内に酸素を運ぶといった重要な役割を担っているため、呼吸状態が悪化しないよう喀痰を排泄する目的で気管支鏡による頻回な喀痰吸引を行う必要がありますが、場合により気管支切開や人工呼吸管理をやむをえず行わなければならないこともありえます。

② 縫合不全、再建臓器壊死:10-30%
血流不全や、吻合部への緊張が高いことなどが原因となり、縫合不全が手術例の約10%に認められます。小さな漏れであれば絶食期間を2~3週間おくことでほぼ自然に治癒しますが、大きな漏れや感染をともなう場合、もしくは胃管の血流不全により壊死した場合には緊急に再手術、複数回の手術が必要となることも考えられます。

③ 反回神経麻痺:30%
声を出すための声帯の動きを司る反回神経は胸の上部から頚部にかけて走行していますが、この周囲には転移を起こしやすいリンパ節が存在し、確実に郭清する必要があります。この操作に伴い神経麻痺をきたす可能性が20%であります。その場合には声帯麻痺となり、声がかすれる、あるいは嚥外時に誤嚥する可能性があります。喀痰を吸引しやすいように頚部の気管に細い管を挿入したり、気管切開処置が必要となる場合があり、長期留置を要することもあります。

④ その他大小の合併症をあわせ、術後合併症をきたすうる可能性は約50%と、この手術は比較的襲の大きなものとなっています。手術に起因する合併症死は約3-4%です。

⑤ QOLの障害:食欲低下、食物の停滞、もしくは腹痛、下痢といった症状が起きてくることがあります。そのため、一回の食事摂取量を少なめにして、回数で補う必要が出てきます。食後の腹痛や下痢、気分不快といった症状は長期にわたり出現する可能性もあります。また体重も術後数年にわたりなかなか増えてくることができません。いずれの症状も術後一定の期間が経過すると、体が順応するため症状が軽くなりますが、その間は投薬や食事指導、特別な栄養管理が必要となることがあります。
⑥ 術後せん妄:食道切除に限らず、大きい手術を受けられる患者様は一時的に、奇異な行動や、発言をしたり、自分で点滴を抜いたり、腹部のドレーンを抜かれたりする場合があります。また看護師さんを呼ばずにひとりで歩こう年それが原因で転倒し、打撲や骨折をされる場合もあります。
⑦ 深部静脈血栓症:手術後は血液が固まりやすくなり、臥床が必要となることも相まって、血管内に血栓ができやすくなります。血栓が心臓や脳、肺などにながれていけば、心筋梗塞、脳梗塞などを発症します。

⑧ その他手術や麻酔に関連する、あるいは関連のしない予想外の事態が生じる可能性があります。
7.当診療科における成績について  各進行度別にみた生存率(術後各年毎において生存されて折られる確率)は以下の通りです。
  Stage0: 1年 100%    3年100%   5年 100%
StageⅠ:  1年 100%    3年84%  5年 84%
StageⅡ:  1年  96%    3年70%    5年 56%
  StageⅢ: 1年  69%    3年37%    5年 33%
StageⅣ:  1年  63%    3年25%    5年 17%

 なお、入院中に採取されました組織については病理専門医が、細胞については細胞診指導医が診断を行います。



説明した日時         30(2018)年3月30日 午前11時30分開始
               30(2018)年3月30日 午後12時10分終了

 また「説明書」には、合併症として縫合不全や肺炎などと書かれ、結果「敗血症、生命の危険」とはっきり書かれている。手術日が決まっていても撤回は出来るともいう、主治医は。
 わたくしは説明を聞いてこんな難しい手術をよくするなあという感想を漏らした。少しの失敗も許されない高度な手術と思えた。なるべく避けたいと思えた。そう言うと主治医は、大学病院としての役割は高度な手術を技術的に地域において最先端であるべきという立場が優先する。困難であるから避けるということは無いという。だが手術される者にとってはたまったものではない。少しの失敗は即死に結びつくのだ。わたくしでさえ、躊躇をおぼえる。しかし、いつか食道のバイパス手術が必要になるという。それなら早く今手術をしてしまうかという気に傾く。不安を抱えながらも手術に同意することにする。ということで、手術日が2018年4月11日(水曜)と決まった。


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伝念入院記6 2回目入院その2 末期? [伝念入院記]

3/9(金)晴
前回の入院の時と同じで便秘であるにもかかわらず、便意を催す。が、出る様子はない。昨晩下剤の効果と思い、頑張る。手応えがあった。軟便が後で出てくる。やっと便秘解消。今度は下痢に悩まされそうだ。
 21:00 4本目投入。
 阻喪始まる。
 韓国のトランプへの説明と、財務省の佐川処分と職員の自殺を、世界の大ニュースに隠れるように発表する。佐川の更迭は文書が出てから取りざたされていたが・・・。職員は自殺なのかどうか?ちがう力がはたらいた?


3/10(土)晴 外は寒そうだが病棟内は快適
 外は暖かそうに見えるが、現実は寒そうだ。
 尿を採るより便が先だ。採尿はやめる。パンツがいくつあっても足りない。
 朝目覚めると異常に喉が渇いている。電気毛布で喉が渇く以上のものであった。昨日茶を少し飲んだだけだ。コーヒーもジュースも飲む気はしなかった。主治医が3/14、かみさん同席の説明の設定を念押しする。かみさんにメールを入れる。
 17:30頃、3人やってくる。こんなところで家族一同相まみえる。
 ずっと下痢である。パンツを所望。
 20:50 5本目。今日で最後の抗がん剤。ついでに眠剤を入れられた。


3/11(日)晴
 20時、抗がん剤終了。下痢と出血。
 東北7年目か、汚染されたところには住めない、それが基本だ。


3/12(日)晴
 点滴終了、12:00。


3/13(火)晴天気良し
 小便が出ない、便も出ない、出血が止まらない。口内炎も出てきた。

3/14(水)天気良し
 すぐれない、小と大は相変わらず出ない。ガスが少し出るようになった。
 9時過ぎにレントゲン透視。食道は良く通るようになった。
 夕刻カンファレンス室で主治医から今までの経過と今後の方針を聞く。かみさん同席。
抗がん剤治療2クール終わった時点での主治医の結論。
骨転移もあり得るという最悪で考えると、末期ガン。様子を診ながら抗がん剤治療、放射線治療を行う。食道にバイパスが必要となることもある。ということだった。主治医は骨のレントゲン、シンチ検査の結果、頭部の上部と頸椎の骨転移に関しては疑問を持っているらしい。骨がんであれば痛みを伴うという。何の痛みも私は感じない。しかし、最悪のことで判断すれば、末期ということになると言う。わたくしはいきなり末期と言われても困ってしまった。


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伝念入院記5 2回目入院その1 食道が詰まってしまった [伝念入院記]


2021年1月24日(日)雨
 坂本龍一が直腸癌で手術した。6年前に中咽頭癌を患った。癌から生還したはずであったろう。渡哲也も直腸癌で肛門を拵えるという苦渋の選択をした。(文中敬称略)


食道に詰まったままで4日目を迎える
第2回目の入院

2018年2/25(日)曇
 2月16日の検査結果で、2/28入院と決まった。
 2月19日昼食に鶏の唐揚げを食べた。詰まっていることに気がつき、色々やってみたが解消しなかった。一晩寝れば大丈夫と思った。だが変わりなかった。吐いて何とかと思ってやっていると、シンクの吐瀉物をかみさんに咎められる。それも悪態をつかれて・・・。
 次の日もだめだった。22日になってこれはヤバい(この間飲まず食わず)と、通っている病院の看護師に何かよい方法はないか問い合わせすることにした。名も告げずに交換手に手短に事情を説明する。随分待たされ、相手がやっと出た。どういう訳か出てきたのは、主治医のT医師であった。とにかく出てこいという。病院に駆けつけて、レントゲンを受ける。詰まっている状態を確認し、主治医は詰まったものをチューブで何とか抜こうとしたがうまくいかなかった。それだけでくたくたになってしまった。即入院が決まる。16時に入院ということでいったん帰宅する。家に帰ってどっと疲れる。辛い。心臓が躍っている。少し動くだけでも辛い。かみさんに送って貰う。


胃ろうか、腸ろう
3/1(木)曇のち晴 放屁ばかり、便は下痢
 2月23日に麻酔を打って内視鏡。目覚めると何も変化はなかった。食道からのチューブ挿入は不首尾であった。で、26日にうまくいけば胃ろう、下手をすれば腸ろうということで手術。目を覚ますと痛いだけでどうなったか結果はすぐに分からなかった。結局胃ろうはできなく、腸ろうとなった。27日から配合経腸用液を入れる。ずっと入れっぱなし。痛み止めもかなり入れて貰った。

3/6(火)晴
 3月3日 かみさんと娘来る。
 こんなことがあった。 
かみさんに預けてあったカードで病院のATMから4万5,000円引き出す。かみさんに3万円手渡したと思っていた。昨日(3/5)手元の封筒を確かめると中には5,000円しか入っていなかった。1万円なくなったことになる。かみさんに4万円渡した記憶はない、落としたか・・・。念のためかみさんにメールする。そうこうしているうちにかみさんから連絡が入る。1万円多くかみさんの手に。思い違い・・・。いや、だから確かめていたはずだ。貴重品箱に入れる前に確かめなかった?かみさんに渡した封筒に3万円は確かめたのに・・・、と思い込んでいる。どうなっているのか、訳が分からない。思っていたことと現実が乖離している。確かに15,000円入っていたと確かめもしたと思っている。夢か現か、境が曖昧になってきている。彼女に1万円多く渡っているとの返事。わたくしの記憶は全て幻だった。錯覚だったのだ。というより強度の思い込みに支配されている。
現実はカードもかみさんに返していた。これはショックであった。
 20:00 1本目の抗がん剤開始

3/7(水)晴 曇って雨になるとか
 睡眠導入剤を23時頃入れて貰うが1時間半か2時間間隔の尿意には覚醒。3時以降は眠れず。8時半頃眠ってしまう。寝ぼけ眼でT主治医に対応。来週の水曜日辺りかみさんが同席できる日を設定して欲しいという。
 痛みはほとんど無くなった、手術以降10日目。
 15時頃、栄養剤を止める。それで暫く過ごす。栄養剤をなかなか持ってこないのでシャワーの空きを確認する。この時間帯しか空いていない。でももう15分ほど過ぎている。シャワーは諦めて、安倍の慰安婦発言を読み返す。従来の否定発言をできない状況に安倍は陥っている。アメリカがそれを認めないことを意味するのか?韓国は韓国内でそれが問題となるが、日本との外交交渉での見直しはしないという。問題は逼迫しているということだ。色々考えをめぐらしていると点滴の注射付近が濡れているような感じがする。気のせいかと思いながら本を読んでいると袖の先が冷たくなってきた。よく見ると濡れていて何かが漏れている。結合部から漏れているようで、やり直すと止まったようだ。なにがもれたか?入っている量からすれば利尿剤のほうか、あるいは抗がん剤か?抗がん剤は血管から漏れたら大変らしい。皮膚は大丈夫なのだろうか?
 点滴部を修繕する前にかみさんが面会に来ていた。昨日のメール、「詰まりものが取れた」ことが伝わっていなかった。「詰まりがとれた」ことは気分的によくない。腐敗したもの?が動いたということだろう。2週間近く腫瘍のところに留まっていたのだから、腐敗が進んでいたものと思われる。変なげっぷのようなものは、気分を非常に悪くした。話を中断して点滴の修復を行ったのだ。どうやら漏れは解消した。
 看護師がMRIの検査が入っているという。昨日からそのようなことが浮上していたらしいが、予定リストに載っていなかった。文句の一つも言いたかったが、頭部を撮り忘れたのだという。MRIは気が狂いそうな騒音である。2度と撮りたくなかったから文句の一つも言いたかったのである。21時、抗がん剤2本目。


3/8(木)曇のち雨
 点滴を4時間ストップするという。こちらの思い込みで外出できるものと思った。一時止めるのは腸ろうの栄養食。
シャワーの設定がなされた。髪の毛をいつも通り手で掬うと、毛は何の抵抗もなく手について抜けた。ぞっとする。ベッドには髪の毛があちこちに散らばった。あまりひどいのでガムテープで拾い集めた。抗がん剤治療を受けたら皆丸坊主にする理由が分かった。病院にある散髪屋は休みだった。退院してから散髪するっことにする。
 便が出ない。夕刻に緩やかな下剤を処方して貰う。
 腸ろうの挿入口の絆創膏を貼り替える。ウエットティッシューで代用する。これで一通り腸ろうの手当について学習した。退院して腸ろうをしなければならないのだ。その前に「腸ろう一式」の契約書にサインする。3割負担で17,250円/月。高いのか、安いのか想像もつかない。器具代のみ。
 22:30 3本目投入。

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