SSブログ

石のつぶやき642 風邪が回復しない中、ヘンコ爺さん行く [平成阿房伝]

4月15日(月)晴
 朝目覚めて汗をかなりかいていることに気付く。やっと熱が出ていったかと思い、熱を測る。37.1℃である。昨日から同じ体温だ。まだ熱が抜けない。昨日一昨日は安静にしているはずであった。
 わたしは4月から北国の赴任となった。服装は冬のまま、コートを羽織っていくことにした。それでも寒いくらいだ。北国でなくてもよくみれば、サラリーマンはコートを着ている。北国に着けば天候も雨模様でいつでも雨が落ちてくる。それも冷たい雨だ。
 8日は、スーツだけで過ごした。体育館は寒く体のシンまで冷えた。それを後になって認識することとなる。その日のうちに咳が出てきて声に影響が出た。いわゆる鼻声である。その日の夜中には38℃を超えていた。朝飯を食ってから熱を測ると37℃少しだ。そんなにしんどくはない。仕事に出ることにする。
 声はもう最悪で、机に座っているとクシャミが出て水ばなが出る。ティッシューではおっつかない、ハンカチでぬぐうことになる。そして帰宅して熱を測れば38℃を超えている。酒を飲んで寝て、起きたらまた飲んで寝る。朝になると37℃少しなので仕事に出る。何とか1週間を乗り切って、8時頃さて寝るかと思っているとき、主治医から電話が入る。もうアカンかもしれない。2,3日かもしれない。今日かもしれないという。もっと早く電話をよこせよ、といいたいところだったが、こちらが横になることを優先して何かあったらお願いといって電話を切る。1時間もしないうちに電話が入り、へんこ爺さんが亡くなったことをかみさんから聞く。とにかく今日は寝て明日は明日でということにする。病院は早く来て欲しかったらしい。8時にはスタッフが揃っているとの伝言まであった。
今月4日にあったときは、右手で左の肩をさかんに掻いていた、右手には軍手がはめられていた。肩に傷がつくのでそうしていると・・・。2階から3階に上がってきてからそんな仕草をさかんにしているという。変わらないということだった。暫くすると安らかに眠ってしまった。当分大丈夫、もっと危篤の状態があったが何度も戻ってきていた。医者の見立ても、わたしの見立ても快方に向かっているで、一致していた。
 今回の入院はまたもや肺炎、唾が肺に流れた?とにかく片肺は真っ白であった。熱も下がって順調と思いきや熱が出たりしていたが、まだ回復するだろうと思っていた。しかし気になるのは主治医となった医者が最初に診断したとき、体が汚かったという。どう汚かったかと聞くと、腹部が汚れていたという。爺さんは寝たきりであったから、介護人が手を加えないと体は清潔に保たれない。それさえされていなかったのか、伏線はあった。2月24日が爺さんの誕生日だ。その日に行くつもりであったが、その前日特養の施設長から電話が入り爺さんが腕を骨折したという。施設長は多分介護のとき、着替えさせるとき無理な力が働いた可能性があるという。左の肘のすぐ上が折れた。事情を分かる限り調べて説明したいというので、1日早く出かけた。説明して平身低頭するが、痛いのは爺さんだ。乱暴な介護が横行しているとの認識を持った。時々訪れるのであるが、知らないスタッフに変わっている。どこともそうだと聞くが、どこも似たり寄ったりなのか。しかしここは、人事に変な動きがあった。最初の施設長は耄碌していたので、若いナンバー2に交代した。ところが何の説明もなしにその施設長は辞めて今の施設長となった。何かがあったのだ。それからスタッフの移動が激しくなったという気がする。その流れの中で骨折が起こったのだ。
 手術もままならず、ギブス固定という状態。その左肩をさかんに掻いていた。痛かったのだろうか。爺さんは話してもずいぶん前から応えなかった。あまりにも誤燕が多く肺炎で入院することがしばしであり、胃ろうにすることになったのである。肺炎での入院は少なくなった。最近はほとんど入院は尿路炎。これも体の衛生状態の問題か。特養に戻ってもなー、という思いもわたしにはあった。これが潮時というものだろう。
 4月13日、8時過ぎに病院に電話をかける。風邪も回復していないが、動かねばならない。これから病院に行きますといって家を出る。10時前に病院に着く。婦長は不在で、暫くして現れた。どうしますかと聞かれた。どうしますも何も、こちらは案はない。して欲しいのは経費がかからずお骨にしてもらえればということである。そのことをいうと葬儀屋に電話してこちらに来てもらうからという。後は話し合ってということである。小一時間ばかり待っていると葬儀屋の営業が二人、やってきた。こちらの要望を話すと、30万円はかかるという。それはホールに一晩遺体を安置して通夜葬儀ができるという。こちらは安置してもらってもわたし一人しかいないから無駄のような気がするという。そうすると支社にも遺体を安置するところがあるという。そこなら20万円以下で済む、そこで話を聞いてくれという。霊柩車が手配できるか、確認して今度は霊柩車がくるのを待つ。30分ほど待つと霊柩車がやってくる。ここは霊安所がないらしい。病室から直接クルマに乗せる。わたしは霊柩車の後をひたすら追いかける。40分ほどだろうか、目的地に着く。一応祭壇のある部屋があり、そこに爺さんは寝かされた。その横で経費の話をする。そして爺さんとわたしの関係をしつこく聞く。役所の担当者が受け付けない場合もあるという。わたしも分からないので家に帰れば戸籍抄本か、何かがあるのでそれで確認する。それに爺さんの本籍地はもう失念していた。それも調べて死亡届に記入しなければならない。もう一度こちらに戻ってこなければならない。それでも明日の12時に火葬はできるという。明後日は友引で斎場は休みだという。そんなとこあるのか、初めて知る。
また戻って爺さんとの関係を説明する。何とか担当者は分かったみたいだ。それで手続は終了。夕方になって電話が入り、予定通り11時に来て欲しい。12時火葬という確認。

4月14日
 10時過ぎに家を出る。数珠を忘れたので5分ほど走って戻る。道はかなり混んでいる。それでも約束の時間に到着。爺さんは棺に入っていた。12時前になってまた霊柩車の後に付く。斎場は5分とかからないところにあった。すごいクルマで満車状態。骨壺をもって最後の別れをする。若い坊主が3分ばかしのお経を唱えてくれる。そして棺が焼く態勢にセットされる。それから待合室で骨揚げの時間まで待つ。混んでいて一カ所しか空いていない。そこでぼんやり座る。考えてみれば爺さんには振り回された。生活費を渡していたが、なくなったという無心。その度に走る。そして特養に入所してからは、病院の入退院の繰り返し。その度に病院に走った。もうダメだろう、今度こそはと思うこと何回あったろう。その度に回復していた。最後のダメージは脳梗塞だった。それでも5年は生きながらえたか。今回も回復するものと思っていたが、特養に帰っても仕方のないところ、頃合いだったのかもしれない。1時間40分以上経って係員が呼びに来た。骨揚げにはここの職員は立ち会わず、業者がやってくれる。骨はほとんど形はなく小さく小さくなっていた。小さな骨壺に余る程度の骨を拾った。のど仏の骨は不思議と残っていた。これがヘンコ爺さんとの別れであった。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。