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伝念入院記 2021年5月12日入院 その2 また腸ろう設営、放射線治療開始 [伝念入院記]

 5月12日(水) 入院
 かみさんに病院まで送って貰う。PCR検査の結果は何もなし。病院玄関で検温、入院受付へ。5階病棟の入り口でかみさんと別れる。
  検査、検査
これ以降1週間にしたこと:造影剤使用でCT検査。撮影。歯科検診。MRI、造影剤使用(一番いやな検査と記憶しているが、本当に苦痛な検査であることを再認識)。
 抜歯(少し緩い歯が2本、放射線照射の後、治療するのが大変であるので抜いておく方が賢明という。)上の歯は3本しかないけれど歯科医の言を信じて抜く。

 5月26日(水)曇
 体重測定。シーツ交換。
 手術部打ち合わせ。肺にチューブが入るかの確認。腸ろう手術の説明にサイン。レントゲン、3カ所と全体の撮影。
 放射線科、放射線治療の説明とサイン。放射線回数、35回貫徹。途中下車、前途無効。
歯をきれいに保つ。臭覚に影響あるだろう。
口腔歯科、抜歯の後のチェック。入れ歯の調整。
 風呂に入って髭を剃る。


 5月27日(木)
 腸ろう造設手術。医者は女性だけ。事前説明からオペまで女性医師が担当。
  6月1日の夜まで絶食。
 5月28日(金)
 腸ろうから少しずつ注入始まる。この頃になると食べるのに30分以上かかり咽せるのが当たり前になる。苦痛である。鼻に噛んだ食べ物が流れるようになる。鼻をかめば必ず出てきた。
  6月3日(木) 放射線治療開始
 11時頃、抗がん剤1時間注入。利尿剤を注入。体重が増えているので抗がん剤が排出されにくい。で、利尿剤で排尿を促す。腎臓に負担をかけないのが目的。
 16時過ぎ、放射線科に呼び出される。先日放射線照射のための「マスク」を作りに来たとき、外来の患者がかなり居た。これはいやだなと思っていた。今日は待合室に誰も居なかった。「マスク」をつけて照射。20分位だったか。後の照射はせいぜい10分位だったか、とにかく35回終了まで続く。
 6月5日(土) 晴後曇
 朝早々(6時過ぎ頃か)体重測定に連れて行かれる。40㎏を超えている。体重が増えると抗がん剤が体外へ排出されにくくなるので利尿剤の注入。1時間毎にトイレ。
 朝食ほとんど咽せずに食べられるようになった。おかずは9割以上おかゆは3割ぐらい、腸が痛まないように気をつける。昼も同程度食べる。
  6月12日(土)曇
 もう1週間が過ぎた。月曜から金曜まで照射。10分位か。食欲がなくなる。食事の内容も相俟って全く食べる気がしなくなってきた。腸ろうからの摂取量が増えていった。が、体重は減った。38㎏ぎりぎりか。昨日耳鼻咽喉科でスコープによる観察で、照射部位は少し小さくなったという。
6月19日(土)曇
 予定は順調に過ぎていく。昨日の照射はもたついた。3度面をはめ直す。角度があわないようだ。時間がかかった。
 シャワーの予約がとってあった。腸ろうの手術の後初めてのシャワー。5月26日以来か。うがい薬、照射後の患部の冷却に保冷剤、思い出した程度に使う。口の中にカンジダ菌が出て塗り薬を口に含む。後は歯磨き。
 一昨日、昨日と筋トレが始まった。リハビリは無いものと思っていたので思いも寄らなかったが、入院して全く何も体をまともに動かすことをしていない、これではあまりだという思いがあった。で、主治医にリハビリができるか問うてみたのだ。主治医はすぐに手配してくれた、それで始まったのだ。出口に向けた動きができるようになり、たとえ40分でもありがたい。
6月28日(月)晴後曇 
腸ろうのチューブがよく詰まるようになった。先週木曜日にどうにもならなくなり、消化器外科に回され、主治医が通してくれた。
 土曜日の3時頃、つまりの警告音が出る。セットをし直すと動く。3,4回詰まったのでその都度セットし治す。でもだめなので当直の看護師を呼ぶ。看護師が一所懸命やるもうまくいかず、土曜日の朝に持ち越された。担当の医師が関わるが詰まりは解消されず、チューブの取り替えということになった。今まで詰まりは何とか解消していた。取り替えると色々心配である。透視で取り替えるので心配は要らないのだけれども、すぐに注入はOK。処置したところが痛むので不安は解消しない。結局チューブの交換は2回行われた。原因は腸ろう液に問題(詰まりやすい)ありとの結論。

 この間、毎朝採血。問題は白血球濃度が低下していることだ。3度白血球を注入。今日の濃度はクリアーなので白血球の注入なし。
 明日に延びた抗がん剤の注入は予定通り行うと耳鼻科の主治医が言う。 
6月29日(火)曇雨
 朝、採血はなかった。9時半頃放射線科から呼び出し。その後リハビリ。
 病室に帰ると尿排出の点滴注入。3回ほどすぐに反応。
 11時頃2回目の抗がん剤。検温、血圧測定。リハビリで測って貰った血圧が上102であったが、今の血圧、上が80ちょい。なぜだ?1時間で抗がん剤終了。
 火曜日はアホな教授回診。ここは回診ではなく患者を1カ所の部屋に集められるのだ。理由をつけて断ろうとするが、動けなければ病室まで来る。教授の託宣をありがたく聞く。わたくしの場合、「がんばってください、口内炎は大丈夫きれいです」、アホか。
髪の毛がいやに多く抜けてきた。「ころころ」を借りる。
6月30日(水)晴後曇後雨
 体重が2㎏ほど増えた。医者は水がたまっていると判断。利尿剤注入。
夕7時過ぎT医師がやってきて白血球値が低いので皮下注射。

 放射線治療、明日からピンポイントになるので午後からとなるという。今まではある程度広い目の範囲で照射していた。それを絞るということらしい。
 食欲は全くなくなり栄養は腸ろうからのみとなった。
 7月18日(日)曇
 放射線照射はピンポイントといっても時間は10分程度であることに変わりはない。リハビリが早いかどうかで相前後する。リハビリの時間は10時と決まっているので放射線の治療時間が日によって違うということ。放射線治療は10時まで待って呼び出しがなければリハビリにいくことにしている。
 あと放射線の照射は2回となった。退院が日程に上ることになる。しかし治療が終わったらすぐに退院かとも思えない。どうも治療後1週間程度様子見を考慮しているようだ。問題は血小板と白血球の量が減りすぎていることだ。補うための補給は朝の採血の結果次第ということになる。最後(3回目)の抗がん剤を使うかどうかも採血の結果次第。全体の効果に影響あるので、抗がん剤は終わっておきたい。また抗がん剤の影響は使用後、2週間後にあらわれやすいようだ。だからしばらくの間ワクチンを打つことは控えなければならないと耳鼻咽喉科の主治医は言う。
 だけど今一番の問題は食欲が全くないということだ。腸ろうがあるから何とかなっている。味覚がないということの大変さを腸ろうを操作しながら感じ入っている。
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伝念入院記 2021年5月12日入院 その1 やはり癌だった [伝念入院記]

8月31日(火)晴
 退院して一月が過ぎた。何もせず一日座って過ごしている。病院に居るときは40分程度のリハビリをしていた。体調はよかった。今は足にむくみができて腫れがひかない。そろそろ動き出さねばと思いつつ、今日を過ごしている。その間、大雨だった日が続き、それが終わるとかんかん照りの暑さに戻った。雨の被害が出るのは、雨が降りすぎるからであって、台風の被害も風が強すぎるということだ。全てのことが「過ぎてる」ということだろう。わたくしが入院したのは、がんの治療を受けるためである。経緯は次の通り。
 4 月16日(金)曇後雨
 不安が解消か、また手術か?先ず採血に行く。時間がかかり、CTの時間がやってきた。係にその旨伝えてCTを受けに。すぐ撮影。また採血所に戻る。もう順番が過ぎていた。係に番号を見せるとすぐさま空いてる箇所に案内された。珍しく男性だった。上手に採血した。次に問題の内視鏡。喉のつかえ、腫れ、刺激物に対する反応等。今年の1月の定期検診のときにも主治医に訴えていた。で今日の内視鏡。普通のスコープを入れる。当然入らない。いつもの小さなスコープを挿入しょうとするがうまくいかないらしい。痛いのだ。こんな痛みは初めてだ。喉ができもので塞がれているのが映る。できものを詳しくみるというので普通のスコープを入れて、できものの一部を採る。もうそれ以上努力はしなかった。今日はそれで終わり。
 12時過ぎに消化器外科受付。そのまま診察室の前で待機。1時半の予定になっても一向に呼ばれない。次々呼ばれるも3時も過ぎた。4時前頃になって名前が聞こえた。名前が聞こえないのか不安だった。聞き取りにくくなっているので不安なのだ。名前が明白に聞こえた。PETの予約を取ることになった。くすりはPETの結果が出る次の診察に回す。一日が済んでしまった。


 4月26日(月)晴
 12時過ぎに出かける。図書館の駐車場で一服して病院へ。1時前に着く。水550ccをコンビニで仕入れる。受付けへ。水のチェック。
 PETの被曝量を検査技師に尋ねる。簡易説明書を持ってきてくれる。CTの方が線量が少し高いことが分かる。フッ素の造影液を静脈に注入。その後水を飲みながら30分過ごす。排尿のあと、PET撮影。終わったのが3時半頃。結構時間がかかった。終わった後、30分間待機。で解放。会計に時間がかかる。今日の会計、3万円以上だが限度越えで支払いナシ。帰ると4時半になっていた。

 4月28日(水)雨後曇
 9時半前に家を出る。10時前に着く。向かいの待合で待っていると今日はすぐに呼ばれた。
 一緒ではなかったのかと・・・。経緯から云えば結果を見るまでもなく判断出来るのだが、要請がなけりゃかみさんを同道することはなかろう。PETの画像を見るとはっきり白く映っていた。おおきなのが食道に入ったところに。小さなのが少し奥の方に白く光っていた。
 放射線治療か、抗がん剤治療か。あるいは手術。場所が場所だけに手術の場合、声帯がなくなるという。その前にこの部位は耳鼻咽喉科の守備範囲。明後日の予約を既にとってあるという。耳鼻咽喉科に行って予約時間を確定して欲しいという。
 帰りに散髪をする。


 4月30日(金)晴
 耳鼻咽喉科を受診。息子が付き添い。待たされる、待たされる。10時の予定が12時か。
 耳鼻科のスコープで検査。どうも最悪のようだ。咽頭部分にできていて、その他にもあるようだという。組織を3箇所とる。生検で精しく調べるという。よくない結果であると覚悟しなければなるまい。1月からどれだけ悪化したのかどうかだろう。
 手術も放射線治療も「大変」だと耳鼻科医は云う。放射線治療で3ヶ月かかるという。大変だと付け加える。ステージ的にどうなのかと質問するも、答えはなかった。すぐにでも脳に飛ぶ位置に癌がある、脳に飛べば終わりという。
 休み明けに検査入院と決まっていた。日にちの設定だけだ。PCR検査が始めにあり、それ次第で入院が無くなることもありうる。このご時世で即入院出来る態勢であることは感謝しなければならないのか。手術はしたくない、声帯がなくなるので・・・。時間が限定されてきた。


 5月11日(火)曇後晴
 病院の構内には行ってすぐクルマが止まる。駐車場まで時間がかかる。初めてのことだ。係に聞くと、連休明けの検査予定が混んでいるのだそうだ。
 PCR検査で鼻からサンプルを擦られた痛みがひどい。採血が混んでいて時間がかかったものの、心電図、レントゲンは待ち時間なし。支払いもなかったので12時過ぎには終わった。帰りに本と石鹸入れを仕入れる。

タグ:咽頭がん
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伝念入院記16 6回目入院 2020年8月 [伝念入院記]

2020年8月 危険な暑さの中 6回目の入院
 あまり詰まらなかった朝食がよく引っ掛かるようになり、詰まり気味になりながら仕事を7月いっぱいで終えた。最後の送別会のときも詰まって食べられなかった。それでも何とか通っていた。が、詰まってしまった。2年ぶりか。


8月18日(火)晴
8/17 16時かみさんと病棟で別れる。付き添いは病棟には入れない。コロナ対策である。しかし病院に入って病棟まで何ら支障もなく入れるのだ。案内された部屋は大部屋ではなく、7,700円の個室である。通常料金3万円かなにがしである。看護師が大部屋しか空いていないと言い訳していたが、個室しか用意されていなかった。空けば大部屋に移すといっていた。今のコロナをとりまく状況から判断すれば明らかである。緊急入院する患者を大部屋に入れてその患者がコロナに感染していれば、その部屋の患者全員がコロナに感染してしまう。それを防ぐためには緊急入院する患者を隔離しておく必要があろう。ここまで書いたところで看護師たちが入ってきた。11時前だ。検温、血圧測定、酸素濃度のルーティンである。今の疑問を彼らに投げかけた。するとひとりの看護師は言う。コロナ対策ではなかった。実際大部屋が空いてなかったのだと・・・。空けば移って貰うと宣う。去年のコロナ対応はこの程度だったのだろう。
 今日とりあえず内視鏡検査の空きができ次第、呼び出すという。それで詰まったものを内視鏡をみながら取り出すという。この領域はなぜか消化器内科らしい。そこの医師S氏が来て説明する。内容結果に署名を求められる。消化器外科では医師が同列にサインする箇所があったが消化器内科では医師の署名する箇所がない。医師がS氏であるか確認しようとしたので気付いた。
 11時半頃内視鏡室に呼び出される。最初標準のスコープで試みるがいつも通り入らない。細いスコープを挿入して詰まったところに到達するも詰まったものがなかなか取れない。何回も出し入れしてやっと通るようになった。原因物は白菜ということだった。通っても夕食はなかった。
 主治医が19時5分頃来て曰く、明日以降細くなっているところを精査して広げるかどうかも含めて考えると。  
アイスクリームとミルクコーヒーを仕入れる。病棟を出て今度入室は、インターホンで認証して貰わないとは入れない。


8月19日(水)晴
 よく眠ったのかどうか分からぬ眠り。横になっているのでうとうとしてしまう。いざ眠るとなっても深く落ちない。で、7時頃には目が覚めるがぼーっとしている。何も食べていないからか、ずっと寝ているからか、曖昧な感触である。
 8時5分頃主治医ともうひとりの医師が来て、広げるより柔らかいものを食べるようにするという。
 9時前に消化器内科(?)の昨日の医師と女医が現れる。昨日のことを話す。こちらは今までの経緯などを話す。術後こんなに長く詰まったのは初めてのことだと伝える。とりあえず謝意を伝える。
 初めての食事(夕食)。全がゆ100g、温泉玉子。
 19時35分、主治医、二人で現れる。19時55分、消化器内科医師二人来る。


8月20日(木)晴
 3時に目覚める。本を読む。
* 1977年「地鎮祭事件」(三重県津市)第一審合憲、第二審違憲、最高裁合憲(5人反対意見。)
* 1988年 「殉職自衛官合祀事件」(山口県)第一審、第二審原告勝訴、最高裁合憲(原告敗訴)
* 1997年「玉串判決」(愛媛県知事 玉串料公費支出)最高裁、違憲判決

 5時半頃看護師採血に現る。その後眠ろうとするも眠れず。
 8時10分、朝食。おもゆ100g、卵とじ、濃厚プディン、牛乳。
 9時過ぎレントゲン科より連絡。主治医ともう一人の医師が待っていた。レントゲン透視。結果は良好。広げなくても何とか現状でよいのではと云う。食事は段階をふんで次は三分粥になる。週明けに退院か?
 病室に戻ると部屋の移動。一番端の初めての部屋であった。並びは同じ。
 栄養士とか、また主治医が食事について念押しされる。3人ほどの医者が来る。3人ほど医師らしいのがやってくる。消化器内科か?
 12:10 昼食。おもゆ100g、豆腐、プリン、カゴメビフィディス菌。一気に食べると腹が張り、朝に続いて下痢。
 体拭き、それに着替え。
 13::00からテレビを観る。昨日は「戦場のピアニスト」、今日は「ガス灯」前者はポランスキー。久しぶりに映画を堪能する。
 18:10夕食。おもゆ100g、里芋汁、これは1度に食べても膨満感はない丁度収まりがよい。
 田んぼを貸しているT氏からメール。来年9月で終了とのこと、そんな気がしていた。
 21時半頃メールが入る。念のためチェックする。かみさんからだ。クルマのエンジンがかからないという。懸念していたことが起こった。この前タバコを仕入れるのにかみさんのクルマを借りた。そのときバッテリーが消耗していることに気がつき、6時間ほど充電しておいたのだが不十分だったのだ。そのうち満充電しようと思っていたのだった。明日仕事だというので、クルマ屋の友人に電話して、時間に間に合うようにして欲しいと依頼する。バッテリーを新しく交換してくれるだろう。


8月21日(金)晴
 7時半頃メールが入る、クルマが動くようになった。
 8時過ぎ朝食。三分粥100g、フルーツ(ナシ?)、濃流ゼリーコーヒー、牛乳、梅び塩、塩パック。全部平らげる。(牛乳以外)腹が張る、2回目のトイレ。
 新聞とミルクティーを仕入れる。昼食前にトイレ。
 12時過ぎに昼食。三分粥100g、煮物、煮浸し、小田巻蒸し、飲むヨーグルト、ミルクプリン、タイ味噌、塩パック。量多いかと思ったが意外と治まった。すぐ下痢とはならなかった。
 映画は渡哲也追悼「愛と死の記録」日活の売れない路線。蔵原惟繕監督の作品。吉永小百合が出ていた。
 18時過ぎ夕食。三分粥100g、湯豆腐、サツマイモレモン煮、酢醤油和え、のり佃煮、塩パック。全部食べる。食べている最中、主治医人で現れる。月曜日退院を希望する。20時前に内科(?)3人来る。


8月22日(土)晴
 あまり眠れず。土曜日であることを失念していた。映画もなく、観るべきテレビもない。新聞を買ってテレビ欄を確認。
 8時過ぎ朝食。五分粥100g、煮物(海老とキャベツ)フルーツ(桃)オレンジアガカリー(?)、鯛味噌、塩、牛乳。
 下痢にはならず。食事中、主治医を含めて3人来る。2週間後来院のこと。新聞を読みながらだらだら過ごす。「オブセッション」の意味が出てこない。やっと出てきた、『強迫観念』。時間が経てば思い出せない、それを繰り返す。他のことばでもそうなんだろうが特にオブセッションに関しては憶えておかねばと云う強迫観念で以て憶えたはずのものがすっかり記憶から抜け落ちてしまうのだ。
 12時過ぎ昼食。五分粥100g、甘鯛ちり蒸し、とじ煮(ブロッコリー)、ジョア、ココアワッフル、梅びしお、。塩
 少し詰まり気味となる。ネギとホウレンソウが引っ掛かる。腹が少し張る。20分後トイレ、少し出る。
 頭を洗って貰う。シャワーは面倒だ。結局一度も使っていない。体を拭いたのは1回のみ。シーツ交換は一度もなし。
 18時20分を過ぎて夕食。五分粥100g、オムレツ(+人参の甘煮)、サラダ、すまし汁、塩パック。全部平らげる。それほど張った感じはしなかった。今日は小便がよく出る。体重を量る、38.4kg、増えていない。


8月2日(日)晴
 昨晩は雷雨。大したことはなかったとかみさん。相変わらず眠れず。1時間毎に小水を足しに行く。
 8時過ぎ朝食。パン60g、煮浸し添え(サンド豆?)、フルーツ、ひじきお米せん、牛乳。
 何気なくパンを食べていると引っ掛かった。なかなか抜けなかった。牛乳は役に立たない。何とか通してほとんど食べる。
 10時頃、新聞、飲み物、アイスクリームを仕入れてくる。アイスクリームを食べていると主治医現れる。明日の退院と通院日の確認。アイスクリームを食べて1時間後、下痢。大量に放出。
 12時頃昼食。七分がゆ150g、煮物(人参と里芋)酢の物(春雨と海老)梅干し、塩パック、原宿ドッグ、マウボ豆腐。少し残す。
 18:20夕食。七分粥150g、海老そぼろ煮、照り焼き、胡麻和え、のりたま、飲むヨーグルト、塩パック。全部食べる。少し引っ掛かったものの大丈夫だった。腹が少し張り少し大便が出る。
 
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伝念入院記15 5回目入院その4 やっと退院 [伝念入院記]

11月21日(水)晴
 飛行機雲は目立たずつぶれてゆく。
 朝食 パン(ロール)60グラム、スクランブルエッグ、缶詰パイン、牛乳、低タンパクゆめせんべい(米 米国産)
 昼食 軟飯100グラム、鯖の煮魚、ダイコンの炒め煮、キャベツの酢の物、飲むヨーグルト、スイートポテト
 夕食 軟飯100グラム、鶏肉スープ煮、サラダ(玉葱ドレッシング)、しば漬け、グレープゼリー


 財政審議会の意見書   11/21毎日 社説より

   借金まみれの平成の教訓

「受益の拡大と負担の先送りを求めるゆがんだ圧力にあらがえなかった時代」
 今年度末の国債残高は883兆円と平成を通じて5倍以上に膨らむ。つけを回される将来世代を「悲劇の主人公」と表現し、「平成の過ちを繰り返してはならない」と求めたのは大げさではなかろう。
 国と地方の借金の総額は国内総生産(GDP)の2倍以上に上る。巨額の軍事費を大量の国債で賄い、破綻寸前だった第二次世界大戦末期に匹敵する水準である。
 

 かみさん来る。何で詰まったのか執拗に彼女が聞く。分からない、消化不良だったといっても納得しない。医者はどう言っているのか?主治医に詳しいことは聞いていない。ナッツ類やコーンを食べたことが原因であることは確かだ。それを言えば責められる恐れがあるので言わずにおいた。主治医は慎重で、重湯からスタートして順次上げていっている。金曜日の夜からはじめて今日昼で軟飯になった。退院は今日のレントゲン次第だという。毎日レントゲンを撮っている。何が問題なのだろう。膨らんだ小腸、大腸が治まるのを確かめているのだろう。
 K医師が16時過ぎに来てレントゲンの結果もよいので明日10時頃にはベッドを明けて欲しいと。後ほど来て薬のことを聞くので、こちらの要望を言っておく。


11月22日(木)曇後雨
 毎日お山をみて過ごす。今日でお別れか。

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伝念入院記14入院5回目その3 少し勉強する [伝念入院記]

 入院8日目。コンビニで食欲補給。

 自衛範囲「砂川」避ける (11/19毎日朝刊)
 判決起案者メモ「集団的」想定せず
「『自衛の為に必要な武力、自衛施設をもってよい』とまでは云わない」《砂川事件入江俊郎多数説(判決文)起案より》
 判決(自国の平和と安全を維持してその存在を全うするために必要な自衛のための措置をとりうる)と言及。「必要な措置をとりうるという中には、その為に必要な用意準備とその使用は当然と認めている。」としつつ「ただそこまで、積極的本件としてはいわなくてよかった」と、判断を意識的に避けたことを明記。「本判決の主旨は、自衛の手段は持ちうる。それまではいっていると解してよい。ただ、それが(憲法9条)二項の戦力の程度にあってよいのか、又はそれに至らない程度ならよいというのかについては全然触れていないとみるべきであろう」と指摘。自衛隊の合憲・違憲という判断を行っていないことを重ねて強調していた。個別意見(石坂秀一裁判官)「自衛権行使のため有効適切なる手段を、国家があらかじめ組織整備することも亦、法的に可能であるとせざるを得ない」とした点も、「本件としては不必要な判示である」と記している。
 安倍政権は砂川判決を解釈して
①自衛のためのに必要最小限度の実力組織を備えることは許される。
②自衛隊は「戦力」にあたらない。  
として国の自衛権とした。

 このメモでも砂川判決が自衛隊や自衛権のあり方について司法判断を示さない姿勢をとっている。  集団的自衛権の行使についてお墨付きを与えているという安倍政権の解釈は間違い。
革命歌作詞家に凭れかかられてすこしずつ液化してゆくピアノ
塚本邦雄
装甲車蘆原なかを迷い居り風の革命を鎮めんと来て
                            岡井 隆
  (11/19毎日新聞 単価月評より)

 本日の朝食  五分がゆ、温泉卵、缶詰ミカン、牛乳
    昼食  五分がゆ、三分の一切り身の魚、長芋のすりおろし、ジョア、原宿パウンド(デザート)
    夕食  五分がゆ、サンド豆のお浸し、玉子巻き(2片)、ビフィジス菌
 夕食はこれだけ違う、なぜだ?


11月20日(火)晴
 今日T氏に会う予定だったが、日曜日にキャンセルの電話を入れたが不在。義母がでたので伝言しておいた。
 16時から18時の間眠った。よく寝た。

 これからの護憲運動のあり方
① 憲法9条を指示しながら、安保条約も支持する(あるいは特に反対しない)。
  ただ乗り論である。
② 憲法支持で、安保条約反対。沖縄からもヤマト日本からも米軍基地の撤退を要求。
 護憲運動が米軍基地を日本(主に沖縄)に置く根拠を強める効果となる。
で、三つのやり方を考える。
・日本は軍事力で守られるべきだという憲法改正賛成・安保反対
 軍事力が必要であれば自力でまかなう。 

・日本は軍事力で守られるべきだが、自分でやりたくないし自分の子どもたちにもやらせたくない。安保賛成・憲法護持(憲法改正反対)。
 これは沖縄の米軍基地にお願いする結果となる。

・軍事力なしの外交
 護憲運動と同じぐらいの反米基地(反安保)運動に力を注がなければならない。
 これが理想でその気になればできるが、米国は黙っていないだろう。
 今のままであれば、中国を敵として自衛隊の実戦配備が現実味を帯びてくる。これは絶対に避けなければならないが・・・。

本日の朝食 角食パン、ママレード、カニもどきお浸し、ビスコ、バナナ牛乳
   昼食 七分がゆ、ビーフン和え、ジャガイモ・人参煮、卵焼き二切れ、ドーム菓子、ジョア 
夕食 七分がゆ、ふりかけ、塩、煮魚一切れ、玉子豆腐、冬瓜挽肉、茄子のお浸しビフィズス菌
 飲み薬として漢方薬だけになった。腸の働きをよくするものである。尼で同時に飲んでいたエクセラーゼ2錠がなくなった。消化剤を欲しいと薬剤師に頼むと、ベリチームを看護師が持ってきてくれた。これは6月消化器内科に入院したときに処方されたものだった。 話は変わって、家の鍵をリュックのどこかに放り込んでおいた記憶があるのだが、あるかどうか確かめていない。万一思い違いであれば鍵を22日の朝、いつものところにおいて貰わなければ後の行動ができない。家の中には入れなければ予定がこなせない。いくつかのポケットを探ったみた。鍵があった、これで安心だ。
 次の診察は12/14で良いかと主治医が聞いてきた。別に良いが、えらい短い。前回は2ヶ月以上空いていたのだが・・・。こちとら予定はないので主治医の都合に合わせることにする。



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伝念入院記12 5回目入院 その1いつもと違う?  [伝念入院記]

2021年2月25日(木)晴
2018年回想
 肝臓の嚢胞が感染して入院した。肝臓の嚢胞を治療して固定した。7月の定期検診で腸ろうから解放されることになった。
 8月には知り合いの妙高にある別荘で過ごすことが出来た。何度も詰まることはあったが大事には至らなかった。9月になって山に入るべく歩き出すことに心がけた。少し歩くだけで衰えた筋肉はなかなか元には戻らない。それでも少しずつ歩いて行くことでキノコ狩りの全コースをやっとの思いで歩き通すことが出来るようになった。10月の半ばになっていただろう。このとき、体に良いと木の実類を意識的に食べるようにした。というのは昔、人参を輸入して売ろうとして知り合いがその段取りをしていた。そのとき輸入相手の金氏が、いつも何かの木の実を食べていたという話を聞いた。その顰みに倣って昼食代わりにクリ。そしてアーモンド、クルミ、ピスタチオ、トウモロコシ等をかなりの頻度で食した。コーンが堅く消化に悪いだろうと思っていた、アーモンドもそうだろう。消化が悪ければ食べないでおこうとは思っていたが、一応消化していたので食べ続けた。それが大変な結果になろうとは・・・。


2018年 5回目の入院
11月12日(月)晴
 2ヶ月振りの病院か、シンチ検査である。8時過ぎに家を出る。9時に造影剤の注射をして家に戻る。13時のレントゲンまで用事が無い。かみさんが実家に帰るので最寄りのJRの駅まで送る。
 昨日昼ラーメンを食った後が重い。食後横になるが一向によくならない。テレビの囲碁を観ていたが集中できない。晩飯は食べなかった。娘が買ってきたケーキも食べなかった。で、粥を作った。半分食べたが途中で放棄する。こんなことが昨日あった。
 13時前に病院に戻る。リハビリの先生に出会う。シンチ検査を受けた後、消化器外科に相談する、昨日来のことを。主治医は今不在だが、代わりの医者が診るという。代診の医師はこのままでは肺炎になると言う。入院だと。その後主治医の手が空き相談する。結果、あの透視造影検査を受ける。鼻からチュ-ブを入れて吸引するも叶わず、とりあえず入院することとなる。用意して出直すということで、息子に連絡して返事を待つ。早めに帰ってくれたので21時の消灯には間に合った。


11月13日(火)晴
 例の知り合いの看護師が担当だった。名札を見ると姓が違う。変わっていた。髪も少し変わっていた。
一日中寝転んで過ごす。


11月14日(水)曇
 13:00に透視造影検査室。造影してレントゲンを撮る。吸引の反応があり、下にも抜けているという。
 この3日間大をしていないので便秘を心配していたが、検査の後3回続けてトイレに駆け込む。便秘が解消。その後薄ら寒い。


11月15日(木)晴
 23:30頃、点滴のアラーム音で起こされる。後はほとんど眠れず。痛み止めと眠剤をセットで注入しているが眠れない。朝まで起きて採血に付き合う。
 10時頃上部消化管内視鏡検査。チューブを通したまま内視鏡を入れる。問題なく挿入された。問題の箇所には内容物はあまりなかった。やっぱり食べ過ぎで大腸部分がくたばっていたのだ。手術の繋ぎ方が分かった。
 食道の残った部分と大腸の半分を繋いでいるのだが、その間に大腸につながった小腸をL字型にして食道と繋いでいるのだ。食道と小腸を直接繋げない、だから小腸をL字にして繋ぎやすくしている。接着した箇所は、肉が盛り上がるので狭くなる。そこに食べたものが詰まりやすくなる。大腸は十二指腸と繋いである。ということは小腸の最後が残った半分の大腸に繋がれたことになるのだろう。時々腸閉塞を起こしている。腸ろうでチューブを入れたところと大腸と十二指腸を繋いだところ、それに小腸と大腸を繋いだところということか。
13時に再び透視造影検査室にて点滴用の点滴用の血管を探す。上腕部に造設。そうしないと点滴量を確保できないという。6月の入院以降、採血の困難な血管となった。全て抗がん剤のもたらしたことだ。


11月16日(金)晴後曇
 10時頃予定の透視造影検査が9時になり、O看護師が送り迎えに来てくれる。検査の結果、全て流れたと確認。チューブを抜く。昼からではなく、夕食からおもゆ開始。
 今朝の飛行機雲は長い時間一直線で少しずつ膨らんでいった。西から東へか、東から西へは見ていない。昼食代わりにアイスクリームを食う。やっぱり下痢だ。かっぱえびせんを喰う。消化剤が朝からでているので飲む。一つは漢方。
 夕食はおもゆもおもゆ、米粒が見当たらない。それとイトサユリのペースト。全く足りませんとかっぱえびせん。そうすると詰まる感触。これはいけない、少し歩く。消化剤もきっちり飲む。
 月曜日に退院できないか問い合わせるが、もう少し様子をみるという。外出はOKらしい。
 頼んでおいた眠剤はゾルビデム10ミリグラム。消化剤として大建中湯、エクセラーゼ配合。



タグ:シンチ検査
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伝念入院記11 4回目入院その2  [伝念入院記]

詰まる

6/2(土)晴
 昼、薬を注入。途中で詰まる。新しく処方された薬で溶けにくく、詰まりやすかったみたいだ。詰まりはなかなか解消されず、他の男性医師(?)が登場。ワイヤーを挿入しょうとする、それはやめて欲しいというこちらの思いも空しく、彼は試みる。でもうまくいかなかった。わたくしは小さいピストンで何とかなると訴える。外科で詰まったときそうしていたのである。内科と外科との接点はないのか、このような点滴をすることはないのか、詰まりにあまり慣れていないと感じた。小さいピストンで何とか詰まりが解消した。薬を入れるとまた詰まった。何とか通すことが出来た。もうこの薬は使わないことに・・・。その最中にかみさんと娘がやって来る。本を届けてくれる。処置に時間がかかって、終わった頃には彼女たちは居なくなってしまった。帰ってしまったらしい。
点滴が漏れる。抗生物質の点滴だけになる。あと一回となる。

6/3(日)晴
 終わったはずの抗生物質の点滴がまだあった。多分ドレインからの液の検査数値がよくなかったのだろう。


6/4(月)晴
 リハビリに行く態勢であったが、看護師が驚いたように腸ろうの管が抜けている、5センチ動いているという。入れるが押すと痛い。担当の医師(I医師)から5センチぐらいなら大丈夫、余裕はとってあると確認。
 20時頃、主治医、I医師がやってきて管を修復、位置の確認をする。しかし管は何となく落ち着きが悪い。早く抜いて欲しいと思った。
 I医師、明日8時嚢胞封じ込めを行うという。


6/5(火)晴後曇
 7時頃から抗生物質痛み止めを注入。
 昨日の話から処置室に行くものと思っていたが、お呼びがかからない。8時を少し過ぎてI医師が入ってくる。
 嚢胞からの廃液を取り出し、薬の注入を行う。鋭い痛みを伴うとI医師は事前に言っていたが、それほどの痛みはなかった。夜になって熱が出た。
 かみさん来る。
 なかなか眠れず、睡眠剤を所望するがもう眠剤は使えないという。仕方なく痛み止めを点滴に入れて貰う。


6/6(水)雨 梅雨入り
 今日の予定はリハビリだけか。
 熱が出る。


6/7(木)晴
 熱が出る。多分予定通りにはならない。


6/8(金)雨
 朝採血。この結果で退院が決まる。しかし管(ドレイン)を抜くという話はあっても無理だろうと思っていた。熱が出る。
 かみさん来る。
 20時頃、I医師今日の採血の結果を持ってくる。あと少し抗生物質棟の点滴は続けると・・・。数値が10以下であれば終えるつもりであったが、11以上なのでもう少し注入を続けるという。


6/9(土)曇
 熱がまだ出る。


6/10(日)曇
 朝食後I医師来る。明日管を抜くとのこと。説明をしたい、火曜日か水曜日はどうかと。


6/11(月)曇後晴
 台風の影響はほとんど無い。
 1時半頃目が覚めて眠れなかった。今朝は採決予定だ。いつもなら6時前後であった。7時半過ぎても現れなかった。やっと現れたが下手で痛かった。随分時間がかかった。それで遅れたのだろうか?
 1時間ほどして血液の量が足りないのでもう一度採血させて欲しいという。前に採血した看護師かと問うと、空いていたので担当させられたという。彼女はきちんと採血していた。ほどなく主治医の助手(?)がやってきて血液の量が足りないという。先ほど採血していったと伝える。


6/12(火)曇
 17時少し前にかみさんやって来る。すぐに説明が始まる。2回目の処置が効いた。CRPの値もよくなった。嚢胞が感染したのは、抗がん剤で免疫力が落ちていたからだろう。何に感染したか培養してみたが、感染元が消滅して分からなかったという。処置(固定)の評価はclassⅡ。癌になる可能性もあるということ。しかし経過から癌になるとは思えないとI医師。土曜日に退院決定。


6/13(水)曇
 5時半頃採血。採血はまだあるらしい。
 リハビリは送迎無しで歩いて行く。歩いて行けるのだが車いすで送迎される決まりになっていた。 

追記
 腸ろうからの栄養液の注入は、入院中は24時間続けられた。退院後は400ccを8時間で注入する。トイレに行くときその都度機械を止めてまた装着して動かすということを繰り返す。7月の定期検診の後、腸ろうをやめることになった。腸ろうからの解放は嬉しかった。
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伝念入院記10 4回目入院その1 歩けない [伝念入院記]

歩けない
2018年5/28(月)曇 晴 雨降らず
5/25(金)這々の体で病院の受付に辿り着く。歩くのに難儀する。採血をするように指示される。えーっ、まだ歩けというのかと思ったが、車いすを用意しましょうかと言われてそこまでもという気になり、しんどい体を採血に向けた。歩くのがこんなに大変なのは初めてである。10メートルおきに椅子を置いて欲しいと切実に思った。いや5メートルか。

 主治医T医師を受診。歩けない、しんどい現状を訴える。胆嚢が影響しているかもしれない、とりあえず消化器内科を受けるように段取りしてくれる。エコーの準備が出来て受診する。触診されてるとき突然吐き気を催し、吐いてしまう。エコーでの見立てで、どうも肝臓の嚢胞が何かに感染しているらしいと言う。そのまま入院となり、レントゲン透視で処置することとなった。処置室でレントゲンを透視しながら嚢胞の中身を吸出していくという。大きい嚢胞、10㎝ぐらいから始める。中身を回収すると3,500ccもあった。驚くほどの量であろう。あれほどしんどかったのが随分楽になった。確かに原因は嚢胞の感染で肝硬変と同じ症状だった。残り小さいのが4,5個ある。それは後日ということでそのまま入院する。4C棟への入院。今まで入院していた4D棟と反対の建物だった。要するに内科と外科が廊下を隔てて正反対に位置していた。かみさんに連絡。息子にクルマの移動を依頼する。
5/26(土) 午前中、ドレインの修復に少し時間をとる。ドレインは昨日処置した嚢胞から滲み出る液を体外に排出するビニール管である。嚢胞の中身をチェックして次の処置をする。そのドレインに不具合が生じたのであった。
 5/28(月)1時半過ぎ病室から外に出ると人集り。思い出した、I医師が1時頃にはベッドに居て欲しいといっていた。このことか、教授回診、ぞろぞろ金魚のうんちがくっついている。こんなことやっているのだな、ドクターXの世界だ。揶揄としての「白い巨塔」の残滓を象徴しているものと思っていた。まさか現実にこんなことをしているとは思ってもいなかった。消化器外科では教授回診ていうものはなかったからだ。わたくしの症例は珍しく、I医師が教授に説明する。教授は形式的にわたくしの肝臓に聴診器を当てる。それで次の部屋に移っていく。へーという言葉しか思いつかない。


5/29(火)曇
 15時予定の処置が9時からになった。残りの小さな嚢胞の中身を吸出する。500cc前後か。合計4,000cc。ということで4月の手術で体重が45キロであったから、結局体重は41㎏ということと相成った。2002年の三分の二の胃の切除で65㎏あった体重が51㎏になってしまい、いくら食べても体重は増えなかった。それが41㎏になってしもうた。
 16時半過ぎから今回のことをI医師が説明するということで、かみさんは4時前に来ていた。 


5/31(木)曇
 5/28の夕から食事が出る。三分粥。食えるがすぐに膨張感、膨満感。どれ位の量が適当か、見当も付かない。以前と違ってかなり食べる。直後水便。その繰り返し。
 12時半頃、我が主治医T医師現る。肝臓の嚢胞処置終了まで消化器内科にいることになると。退院するまで適時指示は出すという。
 16:00頃リハビリ担当者が訪れる。明日から彼女の担当でリハビリ開始する。
 I医師、週明けにもドレインの撤去を予定していると伝える。
 19:00頃M医師来る。彼がI医師指示のもとで嚢胞の処置を行ったのである。明日から研修とかで暫く留守にするという。


6/1(金)晴
 7:30頃M医師研修前に来たる。週明けに造影剤でCT。その結果で治療を終えるという。そして処置した嚢胞から液が滲出しないようにする予定だという。

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伝念入院記9手術入院つづき  [伝念入院記]

手術当日
4/11(水)曇
 5時過ぎに目覚める。昨日の様子じゃ眠れないことが多い。しかしよく眠った。
O看護師が今日担当してくれる。手術室まで付き添ってくれる。嬉しい気分だ、こういう気分はここ何年も味わったことがない。娘とかみさんが見守ってくれていた。


      夢か現か

 目が覚めたように思った。手術室から出て行くときだったように思う。部屋を出て行くときスタッフが「手術は成功しました」と笑顔で見送ってくれたようだ。ふと思った。どんな場合でも「成功した」というだろうに・・・。
 規則正しい振動音が耳に響く。考えてみれば、これがわたくしの生きているしるし。心臓の脈動だった。しかし時間が経つに従って弱々しく響いていくのも確認できた。このまま心音が途絶えていくのではないか、あの「成功した」というのはやはり単に社交辞令に過ぎなかったのか、まやかしだった等々。疑心暗鬼が去来する。
 雨が激しく降っているようだ。この建物の中でもそう確認できたのであるから相当激しい雨だった。そのうち心音も持ち直してきたようだ。また力強い鼓動を耳に響かせてくるように思えた。
 また気付くとベッドの横で手術に関わったと思われるスタッフが打ち合わせをしているようであった。何を話しているのか分からなかったが「アル中」ということばが印象に残っている。
 婦長さんが個室に移ると言った。個室にかかる費用は言わなかった。1日3万円の差額など払える訳がない。そのときどのような部屋にいたのか。ICUに入っていたはずだが、分からない。とりあえず個室に移ったのだ。


4/18(水)曇
 術後の回操(ママ、回想か)。やっと痛みになれてきた。しかし昨晩も眠れなかった。小生は順調に経過しているとのこと。
 4/16(月)無意識下、鼻の管を抜く。あまりにも長い管が入っていたのに驚く。抜いてはだめだったのだ。胸にはめられた動脈への点滴も抜きそうになった。が、看護師が止めた。尿の管を抜く。(譫妄が現れたようだ)
 9時過ぎ液体を飲んでレントゲン。吐きそうな液体を無理矢理嚥下する。咳き込む。すんなり流れているようには見えない。主治医、TDrが操作する。ついでにCTも撮る。


4/19(木)晴
 ひんやりとした空気、寒い。しかし、掛け毛布が2枚必要かと言えばそうでもない。とにかく1枚では寒い。昨日より今日の方が寒く感じた。
 10時頃部屋の移動だという。その前にややこしい装置は外して貰った。今日で個室の使用は終わった。結局7日間の個室か。


4/20(金)晴
 あまり眠れず。食べてすぐ横にならないよう、主治医が促す。食べた後は何となくもやもやしている。だから横になることですっきりするように思っていた。というより楽な気がしていた。
 リハビリ月から金。レントゲンも同じ。
 かみさん17時頃やってくる。
4/23(月)晴
 4/21,4/22,快晴、外は夏日らしい。時間が早く経つが、考えてみれば手術から2週間は経っていない。痛みがあるのは当然なのだろう。しかし、だんだん我慢できるようになってきた。粥の食事が始まっている。食べてみてひっかかる。量を抑えることで何とかのみ込める。ものによってはすぐに咳き込んでしまい、咳が暫く止まらない。飲み込みやすいか、飲み込みにくいかを食べながら吟味する必要がある。
 T医師が血液補給が必要ではないかと言っていると今日担当の看護師が言う。T医師が現れて体力の回復に必要だという。どうしても必要なら考えてみると答えて置いた。血液剤にはウイルスが入っている可能性があるので躊躇するのである。後日他の入院で使ったが・・・。
 14時頃、事務方が姉が見舞いに来たと告げる。唐突のことでどうしょうかと悩む。会いたくはなかった。結論を出せずに悩んでいると、事務方はそこを慮って、「体調が悪い」旨を告げましょうかという。思わずお願いします、であった。後でドライフラワーのようなものが届けられた。知らなかったのだが、普通の生花を病室に飾るのは禁止になっていたんだ。


4/30(月) 退院。
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伝念入院記8 手術入院 [伝念入院記]


        手術入院   2018年4月

4/5(木)曇後晴
 9時半過ぎのバスに乗る。電車またバスを乗り継いで、10時半頃病院に着く。手続きで待たされる。
 病棟では415号室のまた同じベッドになった。大腸内視鏡検査のため、下剤を使う。口腔外科で診察。2時間過ぎても下剤の影響なし。16時になって浣腸をする。やっと出る。それからは2時間毎に排便。  
 18時前にかみさん来る。主治医の説明を聞く。どう考えても難度の高い手術である。手術が出来ればそれに越したことはない。医者は言う、病巣をとるのが基本。そして骨癌については放射線治療がまだ出来る。しかし放射線治療は1度だけと言う。手術することにしているが、悩ましい。手術から還ってこれるかと問われたら、自信はない。不安は払拭されることなく主治医の話は終わる。かみさんは、この前聞いたことと違うではないかとさかんに繰り返す。そりゃそうだ、あのときの話では「何もしない」ということだった。わたくしはバイパスを設けなくてはならないときが来るなら、今手術できるうちにしとく方がよいかなというぐらいの判断である。あまりにも難度の高い手術であるから帰還できるかということであれば、自信は無いということだ。でも、ほとんど手術する気でいる。

   初めての大腸内視鏡、ポリープ10個
4/6(金)曇
 9時鼠径部からの採血。そして下剤。心電図そしてレントゲン。循環器内科で診断、心臓はOK。
 16時から下部内視鏡。
 内視鏡検査室に行く途中漏らしてしまう。
 大腸に初めて内視鏡を入れる。ポリープがあり、見つけ次第とっていく。全部で10個除去したと。疲れ果てる。 


4/7(土)曇り晴れ
 夜から今朝8時まで絶飲食。喉が渇く。8時になって栄養剤の注入(腸ろう)開始。昨日食事等一切無し。アイスクリーム、コーヒー、ジュースを仕入れる。
 15時までに朝の腸ろう終わる。続いて高濃度の栄養剤腸ろう、引き続き注入。
 今日も病院食なしか?
 日曜から下剤。栄養剤3回目注入。



4/8(日)快晴気温低し
 一睡も出来ず。睡眠誘導剤を腸ろうから入れたが全く効かなかった。
 栄養剤4回目投入。14:00 5回目。
 ガスは出るが便は出なくなった。アイスクリームを2個喰う。スナオとハーゲンダッツ。あまりうまくなかった。
 シャワー浴びる。
 かみさんにメール。来るなら腸ろうポンプとマウスピースを持ってきてくれるように伝言。マウスピースはここの口腔外科でつくったものだ、5,000円。置いてある場所が分からないだろうから、メールの後電話を入れる。
 かみさんと娘が来る。息子は山の会合らしい。

 昼には寝てしまうと思っていたが眠くはない。

夜11時半になっても眠剤は来ない。テレビ室で時間潰しでもと思い、詰め所に通りかかると担当の看護師が居て、どうしたと聞く。眠剤の話をすると、後で担当する看護師の予定になかったようだ。その後腸ろうから眠剤を注入。昨日は効かなかったが、今度は効いたようだ。目が覚めると6時頃で、採血で起こされた。


4/9(月)快晴
 喉が渇く。腸ろうポンプの業者に電話を入れる。明日午後1時引き取りに来る。
 知り合いのO看護師が今日の担当。勇気づけられる。
 11時まで栄養剤を注入。腸ろう詰まる。難儀する。11時最後の栄養剤 200CC。 14:30から15:00リハビリ室訪問。現在の体力測定。術後部屋に訪問するという。
 16:00 下剤。新しい点滴始まる。
 18:00 下剤終了。下剤が効いてくる。残念ながら思わず漏らしてしまう。よく効く下剤。前とは雲泥の差。
 21時頃眠剤を腸から注入。全く効かなかった。5時近くまで起きていた。その後眠ったらしく、目が覚めると8時半だった。



4/10(火)快晴
 T字帯、パッド等を仕入れる。手術前日準備。
 麻酔事前説明。
 シャワー浴びる。
 14時過ぎ下剤投入。1時間で終了。それから1時間もせぬうちに1回目。そして2回目。また阻喪しそう。
 21時の下剤はなく睡眠誘導剤のみを腸から投入。あまり効かず。零時を過ぎてから電気を消す。




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