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狂牛病(BSE)情報1084 母の怨念、狂牛病で殺された息子に捧げる [平成阿房伝]

9月6日(金)13  By Warren Manger Mirror NEWS


狂牛病隠蔽:母は苦悶のうちに息子が死んだ後、感染牛の陰謀を暴露


彼女の息子は有望なラジオやテレビのプロデューサーであった。しかし母の腕の中で死んだときには、寝たきりで、目も見えなく何も思い出すことができなかった。


 最後のまだ意識のあるあいだにAndrew Black氏は紫色の瞳で母を見上げ、懇願した。「誰が僕をこんな目に遭わせたか、調べて欲しい」と。
 3年前まではAndrewは有望なラジオやテレビのプロデューサーであった。だが母の腕の中で死ぬときには、寝たきりで、目も見えなく病気の前のことは何も思い出せなかった。
 Andrewは今週30回目の誕生日を迎えるはずだった。

 彼はvCJD-牛の狂牛病BSE同じ病気-で、わずか24歳で亡くなった。

  母Christine Lordは、息子の遺志応える誓いを立て、悲しみをバネに政府がBSEについて何を知っていたか、それはいつかを暴く5年間の調査をした。

 今週発行される「誰が私の息子を殺したの?」で、明らかな隠蔽があったことを彼女は明らかにした。

 Christineは、「死んでいくAndrewを見つめることは私の人生の中で経験した最大の痛みでした。未だに去らない。私が死ぬまで一生続くでしょう」という。

 「そのような恐ろしいことで子どもを失うようなことをしてはいけない」

Andrewの時々の楽しい思い出に陰を落とす。写真を見て彼が感染したのはあのクリスマスだったのか、あの誕生日だったのかつい考え込んでしまう」

 Christineは自分が見つけたことにぞっとした。報告書で政府は1988年には、BSEは広まり、人を死に至らしめる恐れがあると牛を殺すように警告されていた

 暫くして情報源、公に話すには尻込みする人々の多くの情報がChristineにもたらされた。感染した牛は夜中にと畜場に運び込まれる。
 そして事情に通じている研究者は牛肉を食べなくなった。1980年代後半のことである-それでも政府は食べても安全であると喧伝していた
 
1984年の冬に最初の牛が倒れて死んだ西Sussexのpitsham牧場30マイルしか離れておらず、そのときAndrewは幼児だった。BSEの大発生は汚染された飼料にによって引き起こされ全土に広がり440万頭の牛を殺さざるを得なかった

 大臣はそれでもヒトにはうつらないと主張した。Christineは牛肉を食べないことがよいと決めた、そのときAndrewは5歳であった。

 彼の下の妹、23歳のEmmaはわたしの知る限り牛肉を食べていない。

十代のとき、彼はvCJDのニュースを見て「僕にも罹ることがある?」と聞いてきたとCrisutineはいう。

 「わたしはいいえと言い、何年もわたしたちは牛肉を食べていないから安全よと答えた。なんて間違いを言ったことか」。

 牛肉加工食品がチキンから赤ん坊用のラスクまで、スクールランチから不可欠なワクチンまで、何にでも潜んでいることを発見するのにそれほど時間はかからなかった。

 「Andrewにも他の人のように食物と医薬品が安全であるべきである。わたしたちは10年以上に渡ってみな騙されて有毒物質を食べさせられていた。」という。

 「感染した牛はおどおどし始め、目がひっくりがえり奥に行く。目が見えなくなって発狂する。食べることも動くこともできなくなる。ヒトも同じ症状となる。」

 Andrewが感染して最初に現れた兆候は、2004年12月に出てきた-彼が死ぬ前の日の3年前だった。

 彼はロンドンのラジオ局talkSORTで働いていた。しかしクリスマスにポーツマスのHantsに帰宅したとき悲しげに母に言った。戻りたくないと。

 「彼は非常に弱々しげで自信の欠片もなかった。それは全くわたしの息子ではなかった。」とCrisutineは言う。

 まもなくAndrewのフリーランスの仕事はなくなり、家で過ごす時間が多くなった。彼の容体と自信は、病気が脳に及んで悪化し続けた。

 「ある日Emmaが大学から帰宅したときAndrewが缶切りとスープの缶をじっと見ているのをみた。」と母は言う。

 「彼は何をしたかったのがわからなかった。妹が缶を開けてもどのように入れるのかもわからなかった。

 「彼が17歳の時、9/11の夜を徹して3つのラジオを操っていた少年だった。」

 医者たちはうつ病と疑ったが、やがてすぐ2007年5月30日、変異型クロイツフェルトヤコブ病と診断した。

がっくりと落ち込んだが、その荷を背負うことを決意した。Cristineはandrewが真実を知って恐怖に陥るのを避けた。重病だが治る病気だと言い聞かせた。

 この病気はプリオンと呼ばれる異常なタンパク質によって引き起こされる。それは無くすことができない。神経細胞を、回復不能のダメージを与える。

診断が下ってから彼の容体は急速に悪化した。彼の手はひどく震え、髭を剃ることができなかった。バランスがとれなくなり麻痺してしまった。

 死ぬ1週間前には目が見えなくなった。だが2007年12月6日まで怒りをたぎらせていた。

 「貧弱な体は鉄製のベッドをゆらし、家をも揺るがすようになった。家全体が彼の死ぬもがきでこだました。

 わたしを手助けしてくれた看護士と介護士はそれにたいそう不自然さを感じたのでのでその状況を納得させる必要があった。

 彼女は息子のそばに横たわり、彼の死を待った。フリーランス記者がこの病気についてBBCのドキュメンタリーにしたり、病気の究明をしたりして彼女の眠れない時間を埋め合わせた。

 葬儀の後、彼女は調査に取りかかった。その経費は莫大で家を売りに出すことになった。

 ドキュメンタリーを撮った後、狂牛病でなくなった家族、研究者や証人から多くのEメールを受け取るようになった。

あると畜労働者は、感染した牛は夜遅く運ばれ、全ての種類の食品に加工される肉に自動的に再生されていることを明かした。

 「ある時、死んだ牛が入っている放射線を放射している印を示す黄色の袋が到着した」と彼女は言う。

 BSEの恐怖は広がり、ヒトが感染するという恐れが国民に知らされるまでにかなりの年月を費やした。

 彼女は1986年に遡るBSEの公式記録の中に発見した。Daily MIrrorにそのことを伝えた。

 それらは「極秘」と書かれ、研究者は「大したことはない」ものとして扱うようにした。

 1988年2月にまでに秘密のメモは、感染した肉を介して種を越えてうつると警告していた。だがヒトに感染することが証明されるのに時間を要した。もし感染すれば治癒することはない、と。
 翌月のドキュメントは、この病気は汚染された飼料に関係するとしている。

 専門家は「何もしないことは、莫大な費用がかかると」警告した。

 だが当局は経費がかかることで牛を処分することに積極的ではなかった。

 そのときの農業大臣John Gummerは1990年テレビに現れ、ビーフバーガーを娘に食べさせた。

 政府が最終的にヒトへのリスク-ヒトが死んでから を確認したのは1996年であった。
さらに怯えていたのは、研究者だけではなかった。

 彼女は匿名の多くの電話を受けた。その声は彼女に間違っている、元に戻れと警告した。

 「それはErin BrokovichとJames Bondを越える映画のようなものであった」という。

 「ハイドパークを歩いていたとき、わたしは呼ばれた。わたしは寒々とした。」

 Crisutineはいまだに隠蔽があることを恐れる。イギリスの食品は厳格な規制で安全になったけれども、狂牛病でヒトは死んでいく。

 公式的にはこの病気で176人が死んだ。しかし活動家は本当の数字はもっと高いとしている。

 専門家は1,000人に1人が沈黙のキャリアーだと警告している。
 2週間前に菜食主義者Ritchii Karaは後2ヶ月しか生きられないことを明かした。

 55歳のCrisutine はこの問題について犯罪であることを主張している。

 「わかったことは、全ての報道する側はヒトの健康には影響しないとしていることだ」という。「わたしの息子に起こったことは誰の子どもにも起こることである」とも。

 わたしの悲しみがわたしを狂牛に変えるたびに、でも5年間関わってきた後でも、まだ狂おしい怒りを覚える。何としても秘密をあばこうとしても国は知らしめまいとしている。

ひとこと:前にも取りあげているが、いまだに狂牛病の牛が食品にひそんでいる可能性があることを物語っている。アメリカはもっとはっきりしている。牛の肉骨粉が鶏の飼料となっている。鳥の羽や食べ残したものが牛の飼料として認めれている。当然牛はまた肉骨粉の一部を喰うことになる。何ごとも変わっていない。
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