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石のつぶやき1021 辺野古、原発再稼働 [平成阿房伝]

11月27日(金)15


   世はざらついている。何かしら居心地が思わしくない。その音源は何かと考えればゆくつくところは、辺野古であろう。そして原発だろう。原発は日本の中心から遠い、薩摩から始めた。西郷南州の地である。はたまた考えてみれば、フクシマ原発は、会津であった。偶然と言えよう。その偶然は官軍に反撃したことによってのみ、成立する。会津藩が官軍に最後まで抵抗したから、アマチュア無線のコールナンバーは、最後の最後となった。0である。それは考えすぎで、川内原発は、単にさぶい地域だったにすぎないのだろう。川内の次は、伊方である。一応九州電力と四国電力は赤字だと称している。だから低コストの原発を再稼働したのだと言うだろう。どこが低コストだ、使えば使うほど廃炉にかかる費用は膨大となる。それを誰が負担するというのか。電力会社にはそんなことは考えてもいない、日本国。国民の負担であること。それが前提で原発が稼働されている。その間の儲けは電力会社のもの、あとは税金、民の負担。その構造の元に日本の原発制度は成り立っている。そこには蜜を吸う蟻の大地獄がすさまじい様相を繰り広げる。東芝の粉飾決算は、その一端である。原子力何とかのすべての独立法人等は、利権の構造であり日本の民には良いところは何もない。考えてみれば、この国の補助金による政治手法が問われてることになるはずである。大半が原発に反対である。それなのに原発はまた、動き始めた。
 
 辺野古となれば、日本の焦眉の急である。それが矮小化され、「オキナワ」、ウチナンチュウの問題という安倍政権、日米地位協定という神に屈した情けない姿をさらけ出した。その醜さが辺野古を、オキナワを米軍への人身御供化を加速している。普天間基地の安全を、そのためには辺野古移転しかないという、アメリカの言いなりである。古い証文をもちだして辺野古移転はオキナワの合意であると悲しいまでもうそぶく菅。今のオキナワの民の合意は、辺野古移転反対であるということだ。それを、安倍政権の強権を持って押し通そうとする。私人でしか利益のない法律までも総動員して辺野古を貫徹しようとする。この姿は、あられもない寂しき日本の戦前の姿でもある。天皇とアメリカとの違いだけであろう。

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